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郷土の歴史

苗字・屋号

<真人地区>
 大窪氏と笹崎氏は新田氏の将で南北朝時代に若栃に住して帰農したと伝えられる。北山の樋口氏は木曽義仲の家臣で、義仲死後は上杉氏のもとで戦功があり、魚沼郡北山の守備を命じられここに移る。そして次男を桂平、家士を栗山・孫四郎に置いたという(『中魚沼郡史』)。上の沢の丸山氏は、大阪城築城に際し、人足頭として参加したことから「勢戸」の由緒ある屋号が付けられた。
 幕末の頃、北山の平沢氏、芹久保の佐藤氏、上の沢の福原氏などは、川浦代官所から苗字帯刀を許された。


会津藩の御典医になった農民
 田中喜右衛門家(屋号・向屋敷現在の保科栄一家)は、江戸時代に初代会津藩主となった保科正之(三代将軍家光の異母弟)と同姓であったため遠慮して田中姓を名乗ったと伝えられる。
 嘉永年間ころの当主喜右衛門豊重は田中宗養と名乗り、京都の名家吉田家の鑑札のもと開業した名医であった。天保年間ころには会津藩の御典医を勤め、その功績により会津藩主松平肥後守より合口が下賜された。晩年は神職、手習いの師匠を務めたり、新田開発等社会貢献に励んだ。



「拝領の合口・兼定作」と届けられた経緯が書かれた証文。
(若栃・保科栄一家所蔵)