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江戸時代の文字文化
庶民のくらし
塩殿村庄屋庄兵衛家の息子
「江戸相撲見物へ」
嘉永4年(1851)辛亥2月吉日 「江戸相撲出生并名前附」 関嘉久冶扣
(塩殿・関良平家文書)
角觝
『活金剛傳』
詳説
「助かった数百人の命」
真人村
江戸時代の農業は生産量の安定がなく、農作物の育ちが天候に大きく左右されることが多かった。ひどい時には農作物が採れず大飢饉と呼ばれる飲まず食わずの状況となった。わが郷土も例外ではなく、度々の飢饉に人々は悩まされた。
そのひとつである宝暦の飢饉は、宝暦5年(1755)に例年を上回る悪天候が続いたことで被害が拡大した。農作物の生産高は乏しく、米価は高騰し人々は飢えで苦しんだ。野口村(現川西町)はその影響を大きく受けた村の一つで、宝暦6年には全人口407人余のうち飢え死にした者は210人に及んだ。
このような状況のなか、野口村の隣村に位置する真人村(現小千谷市)では宝暦6年の冬に一人の餓死者もでなかった。それは真人村若栃に住む喜右衛門家(屋号・向屋敷)の施米によるものであった。
喜右衛門家は同村の保科徳左衛門からの分家で、初代は喜右衛門。そして同家2代目の当主庄兵衛が「両親の年忌供養のため」として黒米17表の提供を真人村庄屋田中兵右衛門に対して申し出た。宝暦6年2月29日(現在の4月9日)の日付で、「飢人への施米申し入れ願い」と「施米受け入れ協議録と飢人世帯簿」が作成されている。
「飢人への施米申し入れ願い」
(宝暦6年子ノ2月29日 施主田中庄兵衛 庄屋兵右衛門宛)
黒米17俵(1俵は4斗4升入)を父母の年回忌にあたるところから両親の菩提の為、庄屋兵右衛門殿へ願い出て真人組17か村の難儀している皆に施入れしたい。
「施米受け入れ協議録と飢人世帯簿」
(宝暦6年子2月29日 十七村組頭 町村庄之助 若栃村庄左衛門)
(田中家文書・真人町石名坂、旧真人村庄屋で現在の田中秀明家)