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景色・景観

三仏生百塚

<三仏生百塚>
 三仏生集落の西、約1キロにわたって百塚と呼ばれるところがある。139基の石像が確認されており、夕日長者や塚を数えると背負っていた赤子の首が飛ぶなどいくつかの伝説が残されている。

【夕日長者の伝説】
越路町の朝日百塚に関連したものとして次のようなことを伝えている。
 永禄年中(1558-1570)または三仏生村が岩野村と呼ばれた頃に、三島郡朝日の豪族と勢力を争っていた夕日長者と言う豪族がいた。このとき朝日長者に攻められた夕日長者は、宝物を埋蔵するため幾つもの塚を築いた。
 三仏生の熊野神社は夕日長者の内鎮守であり、夕日長者が書き残した次のような歌が残されていたという。
「朝日さす夕日輝く木の元に黄金千両同宇建立」

【百塚を後世に残す精神】
 三仏生百塚は古くから様々な伝説による解釈や形で伝え残されてきた。江戸時代後期には、細貝新五左衛門がこの塚を後世の人々に伝え残すため、塚上に各礼所三十三観音を祀ることを提唱し、天保14〜弘化4年(1843〜1847)に大勢の人々によって建立。(発願主細貝新五左衛門)
 その後、百塚を後世に残そうと言う精神は受け継がれ、50年ごとに供養が行われるようになった。「明治23年(1890)50回供養」、「昭和14年(1939)100回供養」の記念角柱が残されている。平成元年には、150年期の供養が盛大に行われた。このときの導師は故槙東栄師(小粟田潮音寺住職)が務めた。(平成2年小千谷市指定文化財)

 しかし、『三仏生のあゆみ』(昭和57年発行)に掲載されるなど、多くの人に知られる以前は、新五左衛門のことが地元三仏生で語り伝えられることはほとんどなかった。
 今日、新五左衛門の記録が見出され、平成元年の150年期供養まで導いた人物は故細貝祖岳氏である。祖岳氏は三仏生にある細貝惣右衛門家を巻親とする一族の持仏堂「薬師堂」の庵主で、地元三仏生の歴史に最も精通した人物であり、新五左衛門の功績を普及した先駆者である。


150年期の供養

【新五左衛門家(屋号新吾)】
 新五左衛門家は代々大工の棟梁であった。初代は、延宝年間(1673〜1681)に千谷川村の大工職廣川五郎右衛門家に弟子入、勤勉に奉公した後分戸し所帯を持つ。一代で20石余の田畑山林(2町歩余)を所持するまでになった。
 古記録に「大工職もまた有名にして当国(越後)当棟梁の数に入り、宮殿、寺院、堂塔に至るまで彫工は無論農家等も建て」や「京都吉田殿にて昇進す。官名・細貝中務正藤原宗矩と号す」とみえ、越後でも有数の名棟梁であった。百塚の石仏群を造立したのは、5代目、6代目のときである。
 小粟田潮音寺観音堂と彫刻。栃尾秋葉神社、川西町星名家(国指定重要文化財)、その他各地のお宮や堂など建立。


<三仏生>
 地名の由来は、薬師、観音、阿弥陀の3体の仏像が信濃川から上がったことによるものいい、古くは岩野であった伝える。
庄屋は、和田源右衛門家が江戸中期ころまで代々務め、その後年番制になるなどした。天和検地では庄屋源右衛門。文政の頃は、千谷村庄屋の神保四郎兵衛と一ノ宮村庄屋の瀬沼弥五左衛門が庄屋兼帯、与頭は宗右衛門、百姓代は新五左衛門が務める(「小野坂家文書」)。

<三仏生遺跡>
 字清水上で昭和30年に発掘調査が行われた。縄文時代中期から弥生時代の土器、石器のほか住居跡が確認されている。縄文後期の出土物は「三仏生式土器」と名付けられ標式遺跡となった。

<三仏生の巫女爺>
 毎年、8月28・29日のお祭りに、子供たちが白山神社まで屋台を引っぱって、境内で巫女爺保存会によって「巫女爺」か演じられている。
 人形は江戸時代に作られたものといわれるが、巫女爺が三仏生に伝わった時期は定かではない。江戸期の史料からは見出せず、戦前のかなり前から行われていたという古老の話を伝えるのみである。
 現在の巫女爺は、戦後から高度成長期にかけて途絶えたものを昭和48年頃から53年頃にかけて復活し、白山神社のお祭りで行われるようになった。