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明治・大正・昭和

くらしの移り変わり

なつかしい川辺のくらし

 春夏秋冬、川は姿を変えて人々を迎えてくれる。今と違って水の量も多く雨が降ると一変して茶色、天気の良い時は真っ青になる。信濃川の流域に住む子供たちは、毎日の様に川と戯れ、大人たちは信濃川を見て「今の水は信濃が大雨だ」、「今のは魚野の水だ」と判断していた。
 春は鱒、夏は鮎、秋は鮭などを主に売って生活の糧として来た。鱒は漁獲量が大変少なく、生活の糧となる程のものではなかったが、鮭は他の魚に比べたくさん捕れ、一年の収入源のうち大部分を占め、宝物のような存在であった。大河津分水の堰が出来たころから鮭の漁獲量が年々少なくなった。


【雪解けの頃】
 
川芯が荒れると魚たちはその雪間々(ゆきまま)の側に寄ってくる。特に大雪の年は何時までも川の水嵩が減らず、春先に大雨が降ると川辺の「間々」が欠け大変危険な状態となる。しかし、漁には適した状況であった。
村の衆は「掻き網」を持って川辺りで上下へ流れにそって網を流す。魚が網に入ると雪の上に裏返して魚を落とす。一つの場所で魚が捕れなくなると雪の上に置いた魚を腰の籠に入れ、次の場所へと移る。

 雪間々が欠けて増水し、川幅が広くなって温もりを感じ始める頃には子供達も漁を手伝う。川芯が荒れて川岸に小魚が寄り、石や草の蔭に潜んでいる。「ハッタカ」という網を使い、膝まで川に入り、石や草を足で動かし網の中へ追い込んで捕る。
魚をビクに入れて持ち帰ると唐傘の悪くなった骨を細かく削って串を作り、一串に十匹位を差し囲炉裏で焼き熱いうちに大根おろしで食べたり、乾かして汁のダシにしたりして日常食す。


【命がけの「コロタ」拾い】
 
川添に住む人には、雨は恵みでもあり又悪の根源でもある。増水する事によって田畠を流される事もあるが、1年中の生活する薪をさずけてくれる。積雪の多い年程川の増水が続く。生活の火はすべて川にかかって居た家も多かった。
 雪が雨に変って来ると川の増水も始まる。ある程度の雪が流れ川原の石も出て来て流れが見える様になると、個々に川を見に出かける。
一旦雨降りが続き信濃が出ると言う時は、大きな古木や山の中の古枝や細かい「ガス」と言う焚き物が川面を覆い流れて来る。川辺の人はこの時とばかりに長い靴をはき、拾える物はすべて命がけで競って拾う。

  一春に三、四回の増水で一年中使う薪、「コロ」、「ガス」等を確保した。拾った物は「そり」に積んだり、背中に背負ったりして家へ運び、仕事の合間を見て「風呂」焚き、「いろり」焚き、「火付けガス」と積み分けて、必要に応じて利用して生きて来た。信州から出て来た増水は川辺の人達の助けの水であった。

 彼岸頃になると暖かくなり雨降りも多くなると増水し、川幅が広くなり川原も多く出る様になると石拾いが始まる玉石と言って用途に合わせ石の寸法にもこだわり形、寸法の良い物程値段が高く売れる増水によって砂を持ってきたり、石を持って来たり生活をうるおしてくれる事を皆が待っていた。
時には嫌な事もある「ドザイモン」があがると村の経費で始末をしなくてはならない。そう言う時は早く見つけた人が2・3人こそっと川下に流してやる事もあった。


【春鱒の漁】
 春鱒の漁は夜に行われる。舟を利用し、流れの緩やかな深みのある所で網を投げる。網を引き上げる時に手ごたえがあると水の中に潜って魚のエラに手をかけ、掴んで舟の中に揚げる。網から魚を取り出してから氷頭(ひず)を棒で一つ叩きよわらせる。

【鮎捕り】
 田植えや畑仕事が一段落するころには鮎の時期となる。夜になると川に出かけ投げ網で捕る。今のような友釣り、ゴロ釣りは仕事の暇な人がすることであった。
沢山捕れると町の魚屋に売り、生活の足しにしていた。保存は、笊の中にミョウガの葉を敷き、風呂敷に包んで井戸の中に縄で吊るして置いた。

【秋鮭の漁】
 稲刈りと並んで鮭漁が始まる。鮭を捕るには「待ち網」、「居繰網」、「流し網」と種々あるが、特に「待ち網」が多く捕れ、大物ばかりである。鮭が行動する習性を生かした漁をした。
 川の水が濁った時や夜暗くなると川辺に舟を浮かべ「待ち網」をする。夜暗くなってからの漁は、川の水のきれいな時で、懐中電灯で崖を下り、川の淀んだ上で舟に乗り待って漁をする。
「待ち網」は大きいので舟の上に座って川の中に網を入れる。網のところどころには細かい綱がつけられ、それを左手の指で持ち右手には太い綱で竹竿を閉じる役割をする仕掛けになっている。舟は砂利舟の大きい舟を使った。
多く捕れても世間には言わず家族で家の収入を守る風習があった。たとえ他人が真似して捕ろうとしても、待ち網は川を控えてあるので、控えた人でなければその場所は使えないようであった。
鮭の産卵期には「休み」が決められ、捕ってはならなかったが、生活の足しに川の具合がよいと隠れて捕りにいくこともあった。
家庭用には落ち鮭を砂糖醤油につけ焼きして「カメ」に入れ、煮たりして卵は塩漬けにして冬支度に供えた。

【黒鯉・鰻の漁】
黒鯉や鰻を捕る漁は、「はいなわ(配縄)」を使い、小さい子が助手を務める。全長二十b位の太い糸に、一b間隔で細い糸の先に釣り針をつける。針には魚の好む餌をつけ、流れの弱い所に舟に乗って配置する。夕方仕掛けて朝早く引き揚げに行く。糸を手操りながら魚が餌に食いついていると手網ですくって舟の中に入れ、糸を全部引き入れてから魚の針を外す。


【川舟】
 舟は川漁のほか砂石、砂利を売る賃仕事まで川辺に住む人に欠かせない道具の一つで重要な財産である。
 冬には家と同じに雪掘りをして舟の安全を確認する。春の大水にはめいめい個人の持ち舟の用心をしなくてはならない。水が増すと近所で声をかけ合って「水が出たよ」と知らせる。
 大水が出ると舟は水に逆らって綱を切って流されることもある。そのときは下流まで探しに行かなければならない。舟を拾ってくるのは大変な手間と人夫賃でお金がかかるため、このときにも互いに声をかけ合って舟を流さないよう気をつける。


小千谷河岸と山本山段丘を望む
(昭和初期ころ)

【舟大工】
 舟を作る職人は数える程しか存在しなかった。製材した材料を大八車で運び川辺で組立てる。川に浮かべ水の入る所には杉の木の皮を干したものを「ノミ」で打ち入れ水止めにした。舟大工は戦時中、工作機械の製作者として重宝された。
 川を使った荷運びには船道が設けられ、渕の所には柴組みをし、石で沈め足場作りもしてあった。常に遊場は川辺にあり筏乗りが通ると大きな声でからかっても見た。船乗りする人々は常に腰に「わらじ」が2足位ぶらさがっていた。


【参考】
◇「掻き網」
 竹竿三b位の先に、山から細竹(食用竹の子の成長したもの)を取って来て、囲炉裏の熱い灰の中に入れて楕円形に曲げ、それによなべ仕事でせっせと編んだ網を閉じつけた道具。

◇「信濃が出る」
 信州から流れ出る水と魚野から流れて来る水は、色と量が違うので見た目の判断する。

◇「ハッタカ」
 少し太めの糸を五_角位で編み七十a角位の箱形の網を作って、そして川下に持って立ち使う道具。

◇「居操網(いくりあみ)と当川網(あてかわあみ)」
 小船に乗って二艘一組で網を流し、川を下り手ごたえがあると二艘が近寄り鮭を包みながら捕る。当川網は長さ二間位の竹の竿に網を付け、ある程度鮭の来そうな所へ持っていき、網にかかると網を「つぶす」と言って太い綱を引いて捕獲する。


(文・佐藤コマキ)