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神社・仏閣と芸能

魚沼神社(上弥彦社)と阿弥陀堂
《魚沼神社》(小千谷市大字土川)
 中世から近世中ごろまで上弥彦社と称する。蒲原郡の弥彦神社と同神で二の宮であったことから上弥彦と称したと言われる。
 安永9年(1780)に京都の吉田家(地方神職の元締)に『延喜式』神名帳に記されている魚沼神社号の使用許可を願い出て、形式的には「魚沼神社上弥彦大明神」と称するようになった。しかし式内社の魚沼神社の明らかな証拠は提示されなかった。
 式内社の魚沼神社は、江戸時代から諸説あるがどれも確証はない。
 地元では古くから「おやひこさま」と親しまれてきていたが、近年は魚沼神社と呼ばれることが多くなった。

アクセス:
 
関越自動車道小千谷インターから車で5分。

 中世には上杉氏の保護により広大な支配地(社領)と茶郷川流域に広がる吉谷村(郷)に十八末社を有していた。中世の吉谷村(郷)は現在の東西吉谷全域、土川、小千谷市街地、時水、藪川、四ッ子、谷内の地域。十八末社は土川に天王社、小千谷に日光社、山王社、赤指社、時水に保倉社、熊野社、石動社、十二社、藪川に宇都宮社、諏訪社、吉谷に白山社、五霊地社、若宮社、十二社、八幡社、白山社、四ッ子に俣倉社、谷内に熊野社。
 社領を知るも最も確かな記録は、上杉景勝の検地奉行河村彦左衛門によって実施され河村検地(文禄5年=1596〜慶長2年=1597)の文書で、慶長2年に高507石余あった社領が半減されている。
 上杉氏移封後は、堀氏が慶長3年(1597)に社領を高10石まで削減したが、慶長16年(1611)松平忠輝により高20石が寄進された。
 正保4年(1647)高田藩主松代光長が寺社奉行に上申し、慶安元年(1648)幕府から高20石の朱印地が認められた。以後、将軍が替る度に朱印状が下付された。
「天正日記」(天正16=1588)
本社および十八末社の祭礼など記載。
神官小川高繁筆(原本一通、写一通)。

(浅田壮太郎氏コピー資料より)

浅田壮太郎:雨漏りなどしていた天井棚から天正日記を発見。その重要性から厳重な保管(後代に伝え研究に用いる)を説いた人物。小千谷市総合文化協会(平成2年小千谷市文化財協会を改名)の3代目会長を務める。


「慶安の朱印状」
越後国魚沼郡弥彦明神領同郡
土川村内弐拾石之事任先規令
寄附之訖全可収納並社中
山林竹木諸役等免除永不可
有相違者也
慶安元年二月廿四日
(朱印)


「太々神楽」
 太々神楽は昭和30年代後半に消滅以来10年余を経て昭和52年に復活されたものである。
 写真は古くからの舞・装束を伝える貴重な文化遺産。(明治後期)

「斎田」
 神様にお供えをする稲を植える神事。毎年6月に神社所在地の土川から10代の氏子の娘が選ばれ行われた。
【写真左から「山崎ユキ(18才)内山スギ(18才)山岸カズ(15才)」()内は当時の年齢(土川・昭和5年頃)】
<宝物>
○天正日記:別項記載。
○鰐口:永享9(1437)に西片弥三郎光行が寄進。県指定文化財。
○大般若経:謙信が越中での戦利品として持ち帰り寄進したと伝えられる。
○十八末社の神像:明治初期に十八末社から集めたもの。天正年間ころ作成の神像。
○神輿:明応4年(1495)の墨書が天井板にある。
○江戸期の古文書:多数あり。


≪阿弥陀堂≫
(国重要文化財)

小千谷市大字土川字垣ノ内魚沼神社境内
 永禄6年(1563・室町末期)の造立。(解体修理の際に発見された実肘木の永禄6年乙丑によるものであるが、干支が異なる。)
近世初頭まで上弥彦社の別当であった池源寺(現慈眼寺)が守護。
 この阿弥陀堂はもともとは時水にあったと言われる。時水城址麓の沢合いの小高い所に旧地と伝えられる場所があり、そのほど近くに阿弥陀免という地字が古絵図に見られる。
 明治38年に魚沼神社境内の別の場所から現在地に移され、同39年国の特別保護建造物に指定される。

 萱葺き屋根のひさしが短いことからいかにも豪雪地の山間に建立された様子が窺われる。現在萱屋根も苔むしており、十分に萱の効用を果たしおらず雨漏りなどにより建造物のそのものの崩壊が危惧される状況となっていた。平成12年3月、45年ぶりに萱の吹き替えが行なわれた。

修復前の阿弥陀堂