小千谷地域と近隣のまち・むらを結ぶホームページ

「100枚の写真が語る郷土の歴史と文化展」
移りゆく時のながれ、なつかしい、あの人この人、
心に残っている一コマ、
あの日、あの時の思い出がよみがえってくるふるさとの写真。

主催:100枚の写真展実行委員会
共催:
 小千谷市並びに近隣市町村を結ぶ広域ふるさと文化協会
 小千谷市総合文化協会
 おぢやHP発信基地の会

【第一回】サンプラザ2Fロビー ☆期間:8/12〜8/26(土)
【第二回】ジャスコ小千谷店北側出入口 ☆期間:8/27〜9/17(日)
【第三回】サンプラザ2Fロビー ☆期間:8/29〜9/16(土)(好評につき再度開催)
【第四回】小千谷市民会館☆期間11/3〜11/5(日)(小千谷市総合文化展)

 「家庭のアルバムがみんなの文化遺産に」をテーマに、平成5年頃から小千谷市並びに近隣市町村を結ぶ広域ふるさと文化協会が中心になり、家庭に残されている写真を集めています。そして、お借りした写真を複製・拡大し、これまでにもグリーンパーク、市民会館、サンラックおぢやを会場に、「写真でつづる郷土の100年展」としてその一部を発表。
 今回、この活動をより効果的で充実させるためには、長期にわたり大勢の方々から見てもらうことが必要と考え、お盆の帰省客で賑わうサンプラザを会場に開催。皆様から大変喜ばれ、予想をはるかに越える反響を得ることができ、引き続きサンプラザとジャスコ小千谷店にお願いし、三週間にわたって開催。

<家庭のアルバムが文化遺産に>
 展示写真の大分は「広域ふるさと文化協会」が家庭に眠っている明治、大正、昭和の写真を皆さまからお借りし、接写により収集したものから作成されています。
 また、これらの写真にまつわるお話を聞いたり、歴史的な背景を調べたりして、文化遺産としての価値を見出しています。
 こうした活動にぜひ多くの皆さまからご協力賜りたいと存じます。



雪・冬の風情

《屋根雪の高さを走るソリ》

昭和初期・本町


《街の中心は雪の下》

 代々培われた雪積技法を身につけた近在の雪掘り人夫の中にまじり、町場の人々も背なこうじをつけて重いカゴに半分くらい雪を入れ、塔まで運ぶのはとても重労働であった。子供用のカゴもあり、家族みんなで働いた。
 終戦の19年から20年は格別な大雪であったが(2月12日に4m26cmを記録)、男手がなく、年寄りや女しょが大きな雪カゴを背負った。38豪雪時にもこういった光景が見られた。

《ミツウマの長靴でスキー》

ミツウマ印の長靴はゴム質が良く、値段もよく、なかなか手に入らなかかったので、買ってもらうとうれしくて誇らしく思った。
 長靴の中には、保温のためワラくずを入れたが、雪が入って新たなワラクズを入れるしぐさが懐かしく思い浮かんでくる。

《肥引き(こよひき)》

S30年代初め・西中ー山本地内
 夏刈った草を堆肥用に積上げておき、稲仕事が終った晩秋にその堆肥を切替し、家畜の糞や人糞を混ぜて一冬寝かす。
 翌年の春先、肥引きが始まる前にこやしを入れるための穴を掘っておく。凍み渡りができるころソリ(セラ)で運び、穴に堆肥を入れ雨で流れないようにわらで編んだ笠をかぶせておく。そして田打ちが始まる前に肥配りをする。

《雪消えどき》

S20年代・本町
 整備された町通りとは違った町裏は、農村地と同じように薪のニオがあるなど日々のくらしの中身をあらわにした佇まいであった。
 春を待ち望んでいた子ども達は、薪を取り出すために雪をけした雪消えの早い場所を選んで、母親から作ってもらったアルミのお弁当をひろげて楽しんだ。

《雪造大会に出品した像の親子》

 小千谷駅から汽車で群馬県〜東京方面へ入隊する出征兵士を送るため線路道沿線に雪像が作られた。
 戦後も30年代前半ころにかけて、雪像作りが盛んに行なわれた。
小学校や国鉄の職員たちが参加してコンクールが行なわれ、雪像が駅構内や駅前広場そして線路道沿いに小出方面まで並んだ。

戦時下の日々

《千田村主婦たちの射撃訓練》

(昭和19年頃)
本土上陸に備えて主婦達の射撃訓練。
 一の組、二の組に分かれ、鴻巣から坪野にかけての山裾(現在の工業団地あたり)で主婦達が射撃訓練を受ける。次ぎ!次ぎ!という兵隊さんの号令が聞こえてくる。こういった場面の写真が現在残っているのはまれである。

《外地出征を前に》

前橋陸軍士官学校教官からビルマ戦線へ・・・・・
昭和20年戦死(小野坂只司)

《検閲を受けた家族への便り》

舞鶴の海軍航空隊から横須賀へ移動そして船で戦地へ向う途中に撃沈され戦死。(目崎篤)

あの日・あの時

《アメリカ人形はわたしの宝物》

(S20年代)
おみやげにアメリカ人形をもらい、母親の着物でこしらえた洋服のお姉さんたちと一緒に記念撮影。

《角突きの日》

山古志郷(二十村とその周辺地域)の闘牛は牛の角突きと言われ、この日は門出祝いとして面綱、鼻綱(はなぎ)、祝酒などを神前に供え、家族みんなで優勝祈願した。

《おじいちゃんと一緒》

(S20年代初)
 山綿入れはおじいちゃんの仕事着。今ではもう見られなくなってしまった。坊やの三輪も当時はまだ珍しかった。
 おじいさんの呼び方は、「おじいさま」、「じさま」、「じっじ」、「じさ」など家の階層の上下によって違った。


(@生・宇都宮神社)
昭和23.4年頃、村々には青年団があり、自分達でシナリオを考え演じる村芝居が盛んであった。

まち・むらの移りかわり

古文書・写真などや語り伝え、人々の証言によって昔の様子を知ることができる。

「江戸時代の西千谷川と平沢新田」

(現在の城内・平沢町あたり)

《昭和6年の本町》
昭和初期と現在の家の持ち主は、100年も経たないうちにおおがわりしている。
 本町北側通り西の角(シンガーミシンの看板)は片新、その隣は山佐屋、西脇邸が続く。

陸軍中将星野庄三郎の葬儀(S6.5.4)。葬儀は小千谷町をあげて盛大に行われた。当時花輪は禁じられていたが、このときは特別に花輪がたくさん並べられた。