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和島村の古代遺跡


八幡林遺跡の墨書土器
(文・田中靖)

  一.はじめに
 八幡林遺跡は、平成二年度に実施した国道一一六号パイパス建設に伴う事前調査で、「沼垂城」(ヌタリノキ)の文字が見える薄板が出土し、全国的に注目を集めました。この発見は、日本書紀にしか記録がなかった「渟足柵(ヌタリノキ=沼垂城)」の実在を証明するもので、奈良時代の養老年間まで、地方支配の拠点として機能していたことが明らかになりました。
 この発見を契機として、遺跡全容の解明を求める声が高まり、平成五年度まで実に四次に波る発掘調査が縦続されました。この四年間で出土した資料は、膨大な量に達しており、それから得られろ情報は、越後の古代史を知る上で重要な示唆を与えてくれます。
 これらの景重な情報の中から、今回は、平成五年度に出土した二百点を越える墨書土器について紹介します。


  二.五年度出土の墨書土器
 容器である土器の器面に、墨(稀に黒漆)で文字・記号などが書かれているものを、墨書土器(ボクショドキ)と呼びます。八幡林遺跡からは、四年間の調査で四百点近い数が出土しており、県内では最大級の出土量といえます。
 八幡林遺跡は、奈良時代の初め頃から、平安時代にかけて機能した重要な地方官衛(役所)であったことが確実視されています。木簡や墨書土器などの文字資料の多さは、同時期の一般的な集落遺跡では見られない傾向であり、文字を用いた行政の担い手としての役所の姿を如実に物語っています。
 木簡は紙の文書の補助的な役割を持ち、比較的文字量が多い関係上、ある程度正確に内容を読み取ることが出来ます。それに対して、墨書土器は一字のみが書かれている場合がほとんどで、多くても数文字程度であることから、情報としては極めて断片的であると言えます。
 しかし、出土した遺跡・遺構の性格を知るため、特に同時期の文献資料が皆無に近く、文献上での検証が困雑な地方の遺跡では、それらを解明する有効な手段の一つです。
 全国から出土した古代の墨書土器は、極めて膨大な量に達しており、書かれている文字の分析から、幾つかのパターンに分類できることが分かってきました。以下では、八幡林遺跡の平成五年度調査で出土した二百点を越える墨書土器について、その示す内容を考えてみたいと思います。



(1)地名と考えられるもの
  「古志」 「石」

 「古志」(コシ)は古志郡を指すものと考えられ、八世紀の中頃の土器に書かれています。従来の文献では、宝亀十一年(七八〇)の『西大寺流記帳』が、古志という郡名の初見でしたが、八世紀中頃、すでに古志と呼ばれていたことが証明されました。
 「石」(イワ)は八世紀中頃から九世紀前半の土器に見られ、昨年度まで多数出土している「石屋」(イワヤ)の省略形と考えられます。石屋の記述は、長期間にわたって継続することから、郡名以外の遺跡周辺を指す地名の可能性が高いと思われます。古志郡内には、大家・栗家に見られるように、類似した「○や」という郷名が存在することも、その傍証となりましょう。



 (2)官職名を表すもの
   「大領」 「郡佐」 「大」 「石大」

 「大領」(ダイリョウ)は郡の長官を指す官暇名で、郡の役人(郡司)には、大領以下「少領」(ショウリョウ)「主税」(シュゼイ)「主帳」(シュチョウ)の四等官が存在しました。昨年までの資料を含めて、「大領」は二十一点確認されており、この出土量は、験河国志太郡衙に比定される、静岡県の御子ケ谷遺跡についで、全国第二位です。
 「大」(ダイ)は、一般の集落遺跡でも普遍的に見られる文字で、これだけ取り上げると意味不明ですが、この遺跡の場合「大領」が目立つことや、「大領」と「大」が同一の土器に書かれている例があることから、「大」は「大領」の省略形と考えられ、「石大」(イワダイ)も「石屋大領」(イワヤノダイリョウ)を指していると考えられます。(平成四年度の出土資料に「石屋大領」と書かれた実例があります。)
 「郡佐」(グンノスケ)の「佐」(スケ)は次官の意味で、国司では「介」(スケ)と書きます。この場合は、郡の少領を指すと考えられますが、わずか一点のみの出土で、全国的に見ても「郡佐」という用例は無く、詳細は不明です。



 (3)施設名を表すもの
   「石屋木」 「石屋殿」 「郡殿」 「郡」 「南殿」 「南家」
   「郡殿新」 「田殿」 「大厨」 「厨」 「北家」 「大家驛」

 「石屋木」(イワヤノキ)「石屋殿」(イワヤデン)は、奈良時代中頃の土器に書かれており、「石屋木」の「木」(キ)は、古代万葉仮名の〔き 乙類 ki〕の部に属しており、「城」(キ)「柵」(キ)と同じ発音であることから、「石屋木」は「石屋城」あるいは「石屋柵」の当て字であった可能性があります。もし「石屋城・柵」が実在したとすると正史から消えた、幼の城柵ということになります。
 「石屋殿」は、石屋に所在した役所の建物を指す敬称と考えられます。同様に「郡殿」は、郡の行政を司る役所の連物をより具体的に示していると孝えられ、「郡」(グン)も「郡殿」(グンデン)等の省略と推定されます。
 「田殿」(デンデン)は、役所の中でも公田経営等に直接関わる部署と考えられます。四年度に出土した「田長」(タノオサ)は、そこに詰めた役人の長を指すのでしょうか。
 「厨」(クリヤ)は、役所の中での食事を賄う建物を示し、「大厨」(ダイノクリヤ)は「大領厨」(タイリョウノクリヤ)の省略と考えられます。
 「南殿」(ナンデン)「南家」(ミナミヤ)「北家」(キタヤ)のように、方位+殿・家と書かれているものは、その施設の役所における位置関係を示し、役所の中心的な建物(正殿)から見て、南と北に設置されていた施設を、表していると考えられます。
 「大家驛」(オオヤケノウマヤ)は、平安時代の土器に書かれています。
 駅とは、古代の官道(国道)上に、三十里(約十六q)ごとに設置されていた役所で、馬が常備され、主要施設間の連絡中絶や、出張中の役人に食事・宿泊の便宜をはかっていました。
 「大家騨」は、畿内(都)と北陸諸国を結ぶ官道「北陸道」に置かれていたもので、駅馬五匹が常備されていたことが、延長五年(九二七)の『延書式』(エンギシキ)に記録されています。
 「大家驛」の墨書土器が出土したことにより、同駅は八幡林遺跡に近接した位置に所在していた可能性が強まりました。また、北陸道は海岸ルートではなく、内陸の島崎川沿いのコースをとることや、和島村周辺が平安時代において、古志郡大家郷に属していたこともほぼ確実になりました。
 北陸道は、大家駅の次の渡戸駅(ワタベノウマヤ:西蒲原郡分水町の渡戸付近?)で海を渡り、佐渡の雑太駅(サワダノウマヤ:佐渡郡真野町)を経て終点となります。



 (4)人名を表すもの
   「山直」 「野人」 「野」

 いずれも、平安時代(九世紀後半頃)の土器に書かれおり、使用者や所有関係を表すものと考えられる。
 「山直」(ヤマベノアタイ)の「山」は、家の系統を区別する「ウヂ」の名前で、「直」は家柄を示す「姓」である。同氏姓は、はじめ「山部直」と表記されていましたが、延暦四年(七八五)に桓武天皇の諱(イミナ:生前の名前)である山部を避けて、「山」と改められたことにより、「山直」になったものです。
 「野人」(ノヒト)は、個人の持つ名前と考えられ、このほか十点近く見られる「野」も、「野人」の略かと推定されます。
 四年度までの資料では、「足嶋」(タリシマ)と「他田」(オサダ)が人名と考えられます。

 (5)吉祥句を記したもの
   「福」

 器面にめでたい文言を印し、呪術的な意味を持たせたもので、ニ年度には則天文字(ソクテンモジ)の「」(テン:=天)と書かれたものも出土しています。
 他の適跡の例では「吉」「長」「万」などが吉祥句として捉えられています。
 このような、めでたい文言を器に書くことによって、使用者に幸福が訪れ、平安な生活が送れることを願ったのかも知れません。
(※則天文字・・・・・唐の高宗の皇后であった則天武后が制定した文字で、遣唐使等によって日本に伝えられた。一部の文字は地方でも用いられ、墨書土器に散見される。この「」は、もっともポピュラーなものの一つである。)

 (6)一字のみで意味不明のもの
   「由」 「有」 「草」 「田」 「成」 「卯」 「今」 「和」 「卒」 「床」 「合」 「卒」 「判」

 人名等を省略したものとも考えられますが、現段階では不明です。このように、一文字のみで意味を取りがたいものは、平安時代(9世紀後半)の墨書土器に多く、これは全国的な傾向といえます。

 (7)記号と考えられるもの
   「+」「」「○」「□」

 この一群も、意味を取りがたいもので、「+」は漢数字の
「十」の可能性もありますが、詳細は不明です。

 三.まとめ
 最後に墨書土器から読み取れる八幡林遺跡の性格について、まとめてみたいと思います。
 八幡林遺跡から出土した墨書土器の内、人名・官職名・施設名を書くものは、使用者・その食器が配置される場所を示していると考えられます。奈良時代から平安時代にかけて、郡に関わる記述が目立つことから、八幡林遺跡は各期を通じて、古志郡衙に関連する重要な施設であったことが確実になりました。とくに九世紀前半の時期は、「大領」の墨書が目立ち、他の官職名を記したものが稀少であることから、郡衙本体というよりも、大領個人に関わる館であった可能性が強いと思われます。
 これら郡関連の墨書土器のほかに、「石屋木=石屋城柵?」「大家驛」という墨書土器も存在することから、軍事・交通に関わる役所が、隣接して設置されていた可能性もあり、郡の行政以外の機能も併せ持つ、複合的な官衙群であったことが確実となれりました。
 八幡林遺跡の調査は、平成五年度をもって一応の調査を終了しましたが、四年間に出土した遺物は膨大な量に達しており、文字資料以外の整理は遅々として進んでいない現状です。今後は、八幡林遺跡の役所をより具体的に理解するために、時間をかけて資料調査を行い、越後の古代史を研究する一助となれる情報を提供して行きたいと思います。

         (平成六年二月七日 和島村教育委員会)

―筆者紹介―
田中靖氏
新潟県文化行政課調査員として、北陸自動車道建設に伴う上越・糸魚川地区の遺跡調査を手がけ、その経験をもとに和島村役場教育委員会学芸員に転職。
 和島村地内の八幡林遺跡調査に従事し「沼垂城」(ヌタリノキ)の木簡を発見するなど活躍。この発見は越後古代史の夢とロマンをふくらませる貴重な実践として高い評価を得ている。
 昨年12月4日、グリーンパークにて「広域ふるさと文化協会」主催の「第4回・文化講演会」の講師として「八幡林遺跡5年度の調査成果」をご講演いただいた。八幡林遺跡のスライド写真を見ながらの、わかりやすいお話は大変好評を得、もっと知りたいという声もあって、この度本誌へご寄稿願ったものである。
【『小千谷文化』第135号(1994年3月17日発行)所収】