寛永20年(1643)、2代将軍秀忠の第3子保科正之が初代藩主となってから、代々松平氏を称し継承、幕末に至った。
最後の藩主容保は、嘉永5年(1852)に領地を受け継いだ。京都守護職に任命されるなど幕政にも参与する。
鳥羽・伏見の戦いでは桑名藩とともに旧幕府の主力となったが、征討軍に敗れた。藩地会津へ帰った容保は会津若松城に篭城し、旧幕府側で征討軍に対する最も激しい抵抗を示した。
享保年間に越後の幕府領が諸藩の預所となったとき魚沼郡の大部分が会津預の支配となる。この預地は宝暦年間に再び幕府直轄支配となるが、明和年間から会津預所となる。以後、部分的な領地変動があるが、小千谷地域の大部分が幕末まで会津預所であった。 |
幕末の桑名藩主松平定敬は、会津藩主松平容保の実弟で、戊辰戦争では征討軍に抗して柏崎、会津、米沢、福島などで転戦した。
松平越中守家と称された松平氏は、宝永7年(1710)に伊勢国桑名から高田に入封。頚城、刈羽、三島、蒲原郡内に領地を与えられた。寛保元年(1741)高田から奥州白河に転封。魚沼郡内などの領地も与えられ、刈羽、三島郡の大部分は白河藩領となった。柏崎(大窪村)には越後領統治のため陣屋が置かれた。
文政6年(1823)白河から再び桑名に転封。刈羽、三島郡の領地は引き続き認められたので、柏崎陣屋は桑名藩の陣屋として幕末まで続いた。
桑名藩の幕末の領地・預地は、現在の山古志村、小千谷市の東山地区(塩谷を除く)。小国町、川西町、十日町市、広神村、湯之谷村、小出町、大和町などの一部。 |