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戊辰戦争「最大の激戦」

ーおぢや地域を中心としたー

 魚沼郡は、2万7千石余の領地と預所(幕府領)を郡内にもつ会津藩が小千谷と小出島に主力を置いたことから戊辰戦争の激戦地となった。特に小千谷は会津藩預所小千谷陣屋が所在したことと、長岡藩が征討軍に従わなかったことで戊辰戦争において越後の重要な地域の一つとなった。

幕末の領主

幕末の動向

芋坂・雪峠の戦い

小出島の戦い

小千谷談判

片貝・鴻之巣の戦い

朝日山・榎峠の攻防

長岡城落城

<写真>三仏生〜長岡方面を望む
朝日山・榎峠・妙見の戦いで苦戦していた山道軍は、別隊を編成し、朝霧に乗じて信濃川左岸の三仏生村から部隊を下流に進ませ関原村に進駐していた海道軍と合流した。
 会津藩は慶応4年(1868)3月に軍政改革する。魚沼を越後口の要として総督一ノ瀬要らの部隊が派遣され、小千谷陣屋(会津藩預所)と小出島陣屋に主力が置かれた。
 征討軍は会津征伐のため北陸道鎮撫の軍らを高田に集結した。これに対応し長岡藩は征討軍を援助する態度を明らかにしなかったため、高田から進撃する征討軍は、魚沼に進軍したのち長岡城を攻略することに決した。 魚沼郡での戦闘は三国峠に始まる。小規模な戦いであったが小出島・小千谷陣屋から越後口に兵を派遣した会津軍らは、沼田から三国峠に進軍した東山道先鋒総督府の軍に敗れ小出島に撤退した。
 同じ頃、高田の征討軍は海道軍と山道軍に分かれ進軍していた。海道軍は本隊で、柏崎に陣屋を置いていた桑名藩の主力に対し進軍した。岩村精一郎を軍監とする山道軍は、安塚を経て千手(現川西町)に着陣し、ここで二手に分かれ、六日町と小千谷方面へ進軍した。