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慶応4年(1868)閏4月26日(新暦の6月16日)
魚沼で本格的な戦闘が始まったのが芋坂・雪峠の戦いであった。高田から進軍する山道軍に対し、会津軍らは芋坂・雪峠に兵を配置し、高台の地形を活かした要害を築いた。 芋坂:信濃川左岸、小千谷市真人町の東。
雪峠:小千谷市池ヶ原の南。 昭和12年に雪峠から東側に池中新田ー真人芋坂を結ぶ主要地方道(県道)が開通。県道脇に明治戊辰緒戦碑がある。
以前は雪峠集落を通り抜ける道が雪峠へ通じていた。古くは、雪峠ー池ヶ原の東集落から山本山西側を越え、谷内から西中を経て小千谷へ通じる道があり、善光寺街道の一つであった。
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三国峠方面に兵を配備した会津藩は、戦力の増強を進め雪峠方面も警戒していた。閏4月26日には寺田伝三郎を隊長とする青龍隊が大砲などの武器を運び小千谷に到着する予定であった。
一方、千手に駐留していた山道軍は、26日の早朝に本隊(左縦隊)を小千谷に向けに出発した。昼前に真人村に着陣し、さらに雪峠を目指し兵を進めた。 |
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戦闘は芋坂で始まり、山道軍は会津軍らの約3倍の兵で攻めた。地形的に有利であった会津軍は優勢であったが、しだいに兵力の優る山道軍の攻撃に耐えきれなくなり雪峠に後退した。
雪峠の会津軍らの陣営では大砲・小銃・破裂弾を装備し戦いに備えていた。進軍する山道軍と激しい戦闘が繰り広げられたのち、山道軍が雪峠の陣営に大砲を命中させたことで、後詰のなかった会津軍らは小千谷に退却した。
雪峠から退却した会津軍らは、小千谷にあった主力が小出島陣屋に派遣されていたため、小千谷陣屋を守ることができず、信濃川を下り片貝方面へと撤退した。 |