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山城と中世遺跡

小千谷地域の山城

【時水城址】

時水地内より城山を望む−

所在地:小千谷市大字時水字城。
小千谷市と刈羽郡小国町との境界に位置する。

 『上杉史料集』によると遠見衆・走廻衆・押領司等の休息番所であった。
 伝承では、上杉家の家臣曽根氏が居城し、天正(1573〜1591))の頃または天文21年(1551)に城主曽根五郎左衛門某が上杉謙信に反抗したため平子(大楽)氏に攻められ落城したという。
 城の鬼門(北東)には、中世の名主から近世を通じ代々庄屋を務めた小野坂家に所蔵されている古絵図からは、城ノ入、関屋敷など城に関する地名を見ることができる。現在集落名と字に北屋敷が地名として残る。


【ひ生の山城】

寺町通りと城址を望む

所在地:小千谷市ひ生字城ノ腰
城址麓付近には殿入沢・城町・荷屋原などの城に関する地名がある。


※ここでは画面表示の都合上「生」を「ひ生」と記載する。

<ひ生城跡と山寺の古城址>
 小千谷市ひ生には、2つの山城があった。一つは城山と呼ばれるところにあるひ生城跡ともう一つは山寺の古城址である。山寺の古城址は現在確認されていない。
 ひ生の山城は、古くは平氏の一族城氏が居城したと言われ、南北朝時代には北朝方として戦ったひ生氏がいた。その後、上杉氏家臣の平子(大楽)氏がひ生を支配した。
 ひ生の山城は冬村城とも文献で確認できるが、平子氏などの諸氏がどの山城に居城し、冬村城がひ生城と同一のものであるがははっきりとしない。『温故の栞』では「山寺の古城址に大楽平右馬之允時忠が居城した。本館跡は本村の杵渕氏の邸地にあり、上杉謙信の跡目争いで、景虎方に属し敗れた一族が蘭木に逃れたため廃城となった。その後、慶長4年(1599)からの上杉遺民一揆で、五智院海龍が城跡に立て篭もった」という。平子氏は天正八年(1580)に会津へ去った伝えられる。また、遺民一揆で敗れたのちこの地を去ったとも言われる。

【高梨城址】

本丸跡

所在地:小千谷市高梨町字大原

 平沢城ともいう。本丸と二の丸、三の丸を囲む土豪・堀で形成された館を持たない平山城の形態。
 高梨一族は後に平沢姓を名乗り魚沼・古志・三島の各地に帰農したという。
 文明年中(1469-1487)に長尾能景の三男但馬守景長、次いで高梨源五郎頼春、その子頼賢が居城したと伝え、頼賢が蒲原郡笹岡城に移ると廃城になったという。また、御館の乱で景虎方につき落城したつも伝えられる。
 信濃高梨氏の所領(年代不明)に高梨が含まれていたこともあったが、城主と伝えられる高梨氏と上杉氏有力武将の信濃高梨氏との関係は不明である。


【川井城址】

十九半名の一名であった卯ノ木地内から望む

所在地:小千谷市川井字城ノ外
川井または河井とも書く。内ヶ巻地区にあることから小千谷市では指定文化財「内ヶ巻城」としている。

 信濃川・魚野川通船を監視するために利用され、天正6年(1579)には上杉景勝が上田口(現南魚沼)のかなめとして小川左衛門に守将を命じている(『越佐史料』)。
 天文12年(1543)の潮音寺所蔵の観音堂再興の棟札には、川井地頭の宮将監と田中蔵人の名が見られる。宮氏と田中氏が城主に関係する者であろう。
 言い伝えでは上野国(群馬県)新田一族の田中大蔵が居城し、川井は田中氏の支配にあったという。
 城主田中氏は周辺20カ村を十九半名とし支配した。名主は苗字帯刀が許されていたといわれ、冬井の名主大渕市右衛門は城主田中大内蔵よりお墨付きを賜った(『新編会津風土記』)。

 愛染明王と妙光寺は、川井(内ヶ巻)城主により当地に伝えられたと言われる。
川井城の近く位置した愛染明王


【函山城址】

所在地:小千谷市岩沢字細田沢入

 通称「栗田平」と言われる。主郭の西に遺構が確認できる。細長い尾根が続き、堀を隔てて土塁があり郭が配置されている。
 建武年間(1334-1336)に新田義貞の将栗田左近頭が築き、田中筑後守有重これをつぎ、その後上杉憲房の将泉沢氏が居城したと伝えられる。


【片貝城址】

所在地:小千谷市片貝町城ノ腰

 近年キャンプ場などに利用出来るように整備された。現在は本丸を中心とした遺構を確認できない。
 古志長尾氏の管轄領域で文明15・16・17・19年(1483-1487)に行われた検地(『越後検地帳』)に「本田壱万六千六百八十苅片貝同名掃部助分」と知行がある片貝氏の居城と考えられている。また、片貝氏は『北越太平記』、『北越軍記』にみられる。