小千谷地域と近隣のまち・むらを結ぶ

失われゆく雪国のくらし


(この原稿は平成11年度に寄せられたものです。『小千谷文化』第162号・163号合冊にも掲載されています。)


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≪雪国ふるさとの回想≫
文・小杉達太郎

 昨年冬を迎える前に、報ぜられた今年の降雪予想、昭和二十年の豪雪に始まる十八年周期、昭和三十八年、五十六年と共に記憶に残る豪雪であり、次が今年に当たるとの豪雪周期説が真実味を帯びて報ぜられていた。
 最近の地球の温暖化の影響が、数年来の小雪に比ぶれば、市の中心部も屋根雪下し二回位は大雪の年かとも思わせる程度に終った。
 現代の舗装道路の整備、消雪パイプ、流雪講が縦横に走り、除雪機械も充実され、無雪道路を当然とする今の生活、昔大雪の年の多かった、戦前からの雪国のふるさとに住んだ者達には夢の時代にも思いる。
 昭和十四年春の雪も記憶に残る。当時私は日中事変に応召、中国江南地方に在り、慰問に送られて来た地元紙、魚沼実業新聞に見た(同紙も此の年国策に副え廃刊となる)古里の春の便りに「東小千谷から本町へは四月十二日やっとダットサン(小型自動車)が通れるだけの道が開えたが、金をかけて道路に積み上げた雪を、また金を掛けて消さなければならない、氷室の中の様な生活が続けられている、一本の流雪講があったらと願う、四月中旬の春を忘れた町の姿が伝えられていた。」
 遠く古里を思った、当時が懐しく思い出される。
 降った雪はそのまま家の廻りや、道路、空地に積み上げられ、春迄の長い冬篭りに入った生活は、昔からの雪国に住む者の宿命として、一種の悟りでもあり、あきらめでもあった。
 氷室の中の家の中(寒風も入らず暖かかった)は明り窓も少く暗く、大正末期より昭和初期の当時は電灯はメートル従量灯は少なく、料金固定の定額灯で十W、二十W二、三灯だけの家庭が多かった。昼間は点灯されず、慚く暗くなる頃点灯され、降雪で架線故障があると電話も無く一晩ローソクに頼る夜もあった。(料金は一ヶ月三円位であった。)
 その故、電球の線が切れると無料で交換され、後に本町三丁目に昭和六年建設の旧小千谷町役場庁舎のあった場所に住む、地主の渡辺太左右衛門家に北越電燈鰍フ出張所があり、電球の交換に行かされた子供の頃が思い出される。
 明り窓だけの家の中は暗く、自然に学校帰りの子供達は雪の降らぬ日は表に出て遊ぶことも多かった。
 一家に三、四人の子供の居る家庭は普通で、友達は直ぐに集った。

 子供達の冬の遊び
  ○雪だるま
 雪が降ると一晩のうちに数十糎積るのは珍らしくない、そんな時子供達は集って雪だるま作りが始まる。
 少しづつ転して大きな雪のたまを作り、二ツ重ねると背丈くらいになる。
 誰かが家から木炭を持って来て、目や鼻や口を作る、丸いバケツを持って来て帽子にしたりする。素手で雪をかため合い、手の甲を赤くはらした霜焼けの子も多かったが皆平気だった。

  ○スキー
 雪国の子供達にスキーは下駄をはく様に、小さい時から近くの崖や坂が多く滑っていた、小さい板スキーは親が作ってくれた皮帯だけの手製もあり、当時中子町にあった小林スキー店から買った。金属バッタにゴム靴で滑っていた。
 小学校冬、体操の時間はスキーが正課であった、上級生になると船岡山に遠出したり、帰りに小千谷小学校脇の山上にあった、元女学校(中学)裏の急斜面を直滑降で校庭迄滑り下ると終りであったのを思い出す。

  ○箱ぞり
 昔のミカン箱は木で出来ていたので具合が良かった。これに竹スキーを釘で打ち付けて箱ぞりを作った。坂道の上から乗り出し体重のかけ方でかじを取り乍ら下りとスピードが出た。小さな児を乗せて組を付け引くと子守りにもなった。

  ○竹スキー
 太い竹でも細い竹でも二ツに割って、先を火に温めて曲げて、前に組を付けたりかんたんに乗れた。長さ二十糎位の太い竹を二ツに割って先を削り、下駄の様に組を付けるとスケート靴代用となり坂を滑ったり、凍った日はスケートも楽しめた。

  ○雪玉あそび
 数人の仲間が集って雪玉の強さを競うものだった。お互入念に雪を手の中で固める。ジャンケンで負けた者が雪の上に置き、相手は雪玉をねらい定めて投げつける。
それで欠けたり壊れた方が負け、相手が変る。最後に残った者が勝である。共に無傷なら攻守をかえて同じことをする。負けた者は新しい雪玉を備え、いかにすれば堅い玉が出来るかいろいろ工夫して知恵をしぼった。手で握るだけでは足りず、股の間の力を借りても不足だと、電柱や板壁に押しつけ、雪玉から氷に変って光ると、氷玉のように強そうになってまた参加した。
 子供達の遊びも世と共に変る。電子時代に変っても、それぞれに懸命に過ごした幼き日の思い出は消ゆることは無い。今は逝きし友に、忘れ去られ行く幼き日の郷愁を思う。