小千谷地域と近隣のまち・むらを結ぶ


失われゆく雪国のくらし

(この原稿は平成11年度に寄せられたものです。『小千谷文化』第162号・163号合冊にも掲載されています。)

しみわたり・こよ引き・・・滝澤龍三郎 雪国ふるさとの回想・・・小杉達太郎
寒念佛修行・・・矢久保徳司 スキーと子供と小学校・・・羽鳥孫市
大雪今昔・・・伊佐郁子 十二月の事の木札の由来・・・石曽根いわ
懐かしい炉ばた・・・浅田外史 言わずもがなの記・・・折田龍太郎
しみわたり・・・柳幸弘 鮭漁の思い出・・・柳幸弘
雪原の罠・・・関口作政 失われゆく雪国のくらし・・・広井忠男


≪しみわたり・こよ引き≫
文・滝沢龍三郎

 古老の話を書き留めておかなければ、と心配していた自分自身が、自ずから体験してきたことを書き残して置かなければ、という変遷の速さ、こんな思いを懐きながら筆を執ってみました。花粉を抱いた杉の葉が茶色っぽくなり、雪も下溜り、暗く冷たい冬から解放され、春の気配がただよう頃、固く締った雪の上はどこまでも歩いてゆくことができます。雪国で生きてきた私には一年中で最も好きな季節です。
 雨上がりの後、放射冷却によって、しみ渡りができるようになると、私達は好んで山に出かけました。スキーや、かんじきが無くとも、どこまでも行くことができます。その頃は兎の足跡なども多かった。燃料として、どこの家でも薪切りをしたので、雪を越すような雑木も少なく、山の上に登ればどこまでも俯瞰(ふかん)することが出来ました。農業が主体で、勤め人の少なかった時代には、曜日に関係なく、時に天候に依って若い人達でも、このような山遊びに出かけることもできたのです。四〇戸くらいの部落総出で兎狩りをし、二〇匹近い獲物を得て、宴会を催したこともあります。
 昔は農家の冬仕事は多かった。縄を綯(な)い、俵を編み、荷縄や背なこうじを作り、スッポンやワラジ、笠等まで作り、それらを雪の上に曝したりして夏の作業に備えたものです。自家製の味噌玉と称するものを作って爐の上に真っ黒になるまで吊り下げたりもしました。
 私の部落でも、四十年始め、萱家の改築ブームが起こる頃までは、こうした状況が続いてきました。鶏を始め、牛や豚や山羊等、村の八割以上の家々で家畜を飼っておりました。その堆厩肥を家や畜舎の脇に雪を掘って積んで置き、それを彼岸かけまわりの頃になると田の処々に直径一.五米、深さ一〜一.五米位の穴を掘り、橇(機械橇とも呼んだ)に舟と称する箱を乗せそれに積んで運んだのである。それが「こよ引き」である。この舟は消雪後は、水田の中で縄をつけて引っ張り、堆肥を更に小分けして運ぶにも使いました。当時は田の基盤整備は為されておらず、道も無く、水路も無い状態、そこへ重い堆厩肥を運ぶには雪上での橇以外にはなかったのです。こよ引きには前日から穴を掘ったり、かんじきで道を付けたりして準備しておき、当日は道が固く凍った朝から、夕方再び雪道が凍り始め、橇の滑りが良くなる頃まで続けたものです。終戦直後の頃は、ゴム長等も手に入り難く、スッポンとかスッペとかいうものを履いてやりました。重労働の為、又長時間の為、空腹時のお茶の時間、焼いた餅や蒸かし芋等を食べた美味しさは忘れられません。五十年頃部落内の市道が除雪されるようになると、橇道は所々寸断され運搬は難しくなりましたが、この頃になると、こよ引きをする人も少なくなりました。真人地区では四十年の始め頃、村の振興会が中心となって、他地区に先がけて、工場誘致が計られ、現在の真人日本精機と協成鋼管工場の二社が立地されました。これを機に今までの冬の出稼ぎは激減し、稲作への比重も低下し、家庭内に居た女性たちも就職するようになりました。一町歩程度の耕作者、この当時としては大農家と見られた人までが、会社に就職したことは、驚きを以って見られた時代でもありました。
 地域の多くの人達が誘致企業に就職し、農家への比重が下がるにつれ農地への極端な執着も薄れ、その後の農地基盤整備事業がスムースに行われるもとになったことは幸いでした。
 農地の整備が進み、人手が不足すると共に経済的に多少ゆとりができてきことから、機械導入が進み、有蓄農家は激減、藁の利用の必要もなくなり、当然のことながら、ハザ掛けやこよ引き作業等は無くなりました。今まで六月中までかかった田植えは五月中に早々と終わり、十一月までもかかった稲作の収穫は九月中に終わるようになり、夏の田草取りの骨折りは簡単な薬剤散布に変わりました。反面よほど条件の整った日曜日でもなければ、家族皆でしみわたりに出かけられるような時間的余裕はなくなり、子供達は学校で平地のスキーをする以外は、部落の中で遊びにスキーをする姿は見られなくなりました。大人がスキーに楽しむのは専らスキー場に行く以外にはないことになりました。
 堆肥として、家畜の飼料として今まで百パーセント利用してきた畦畔雑草、いろいろな面で利用してきた雪も今は全く厄介者視され、それから逃れる為に、人々は挙(こぞ)って街に出で行く。過疎は進み、公的機関の廃止は更に拍車をかけ、何百年かの歴史を持った集落も幾つか消え去ってしまいました。
 こうした現状を目の当たりにしながら人間の幸せとは何かを、しみじみと考えさせられます。
(11.1.29)