小千谷地域と近隣のまち・むらを結ぶ

失われゆく雪国のくらし


(この原稿は平成11年度に寄せられたものです。『小千谷文化』第162号・163号合冊にも掲載されています。)


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≪雪原の罠≫
文・関口作政

 雪国に生まれ育ったものは、雪の事なら何でも知って居ると云う驕りがある。一年の三分の一近い雪の中の生活を通して、雪の姿、雪の性質のすべてを見て居るからである。その結果、雪を甘く見たり、自信過剰になつて失敗する事がある。
 私と親友のKが、自分の部落まであと四百メートルの雪原の中で危うく遭難しそうになったのが良い例である。私はこの記事を書くために問題の道の長さを測って見た。私が普通に歩く歩巾は七十一センチである。その足で丁度八百歩あった。換算すると五百六十八メートルになる。せいぜい六百メートル足らずの雪原の中にどんな落とし穴があつたか述べて見たい。
 私が小学校の高等科の冬の事である。親友、Kと一緒に校門を出たのが午後四時半頃であった。雪国の午後四時半は夕方である。市の口を過ぎ、村はずれの“A飴屋の坂Bの下に差しかかった時は日が暮れて居た。雪の多い年で二メートル以上の積雪があったように思う。
 先になつて歩いて居た「K」が立ち止まって坂道を見上げながら「アッ 道が付いて居る」と云った。成程、今朝登校する時は何も無かった「飴屋の坂」にカンジキで歩いた足跡が坂の上に向かって伸びて居たのである。
 Kが驚くのは無理もない事であった。この坂に道が付いたという事は、この道を利用する者にとっては大変なニュースであったからである。それは学校までの距離が大巾に短縮される上にA雪崩場Bを通らずに済むと云う二つの大きな利点があった。(雪崩場と云うのは何時雪崩が襲うか分からない危険箇所の事である)
 だが、この坂に道を付ける時は予め子供達に知らせるのが慣例になって居た。何の予告もなしに突然出現した道に普通なら疑問を持つ所だが、雪の量といい、出来た時期といい正にグットタイミングである。しかも日は暮れて居た。Kも私も欣然として坂を登り始めた。
 この坂を登らずに、国道を百メートル程行った所がA女郎がハバBと云う伝説のある断崖で雪崩の難所であった。崖から雪がのしかかるように覗いていて、何時襲って来るか分からないような不気味な姿をして居た。
 雪には慣れて居るこの土地の大人も子供もその下を通る時だけは、雪を見上げながら息を詰めて通り過ぎるのであった。(昭和二十四年三月に此処に出現した三万立方メートルの全層雪崩の猛威の事は、前に「小千谷文化」でA女郎がハバBと云う記事で紹介した)
 雪が多くなって、これ以上は危険だと部落の役員が判断すると、岩山の原地区からA飴屋の坂Bに道が付けられるのだが、この仕事は原地区十軒の家に任されて居た。A道付番Bと書かれた黒いA番板Bが廻って来ると、その家が翌日の当番であった。
 だが、朝は小学生が登校するのに間に合わせなければならなかったし、雪の多い日はA宵道Bと云って夕方も踏まなければならない為に、往復二キロメートルに近いこの道付けは重労働であったのに、報酬は一円も無い純然たるボランティアであった。
 そのため開始はぎりぎりまで先送りされる為に、此処に道が出来たと云う事は利用者にとっては最高の福音であった。(飴屋の坂は今でこそ利用者の少ない寂れた姿をして居るが、以前は所謂(いわゆる)「善光寺街道」の難所でA戌辰戦争Bのとき見慣れない服装をした官軍の兵士達が、私の曽祖母を揶揄(からかい)ながらこの坂を下って小千谷へ行軍して行ったと云う。嘉永二年生れの曽祖母は、その時まだ十七才位であった。)
 私達は薄暗くなつた坂を登った。人通りのない新しい雪道は歩き難くくて頂上まで時間がかかった。暗くなりかけた坂を登りきってA三夜様Bの前に来た時、先を歩いて居たKが不意に立ち止まって「アッ道が無くなった」と云った。暗くなって道はぼんやりとしか見えなかったが、Kの云う通り道は其処まででお終いであった。
 私達は其の道の意味が初めて分かった。多分、市の口の何処かの家庭で年末の煤払いをして、古くなった神様のお札をA三夜様Bに納める為に造った臨時の道で、原地区で造った正規の道ではなかったのである。普通なら此処で引き返して国道を帰るべきであった。だがもう日は完全に暮れて居て今登って来た道は暗かった。しかも私達の帰る原部落まで五〜六百メートルしかなかった。
 Kも私も引き返す心算はなかった。この侭、道の無い雪原を踏破する事にしたのである。悪い事に私達はこの辺の道も地形も知り過ぎて居た。たかが六百メートル足らずの慣れた所である。這ってでも行ける自信があった。だが其の時の雪質を全く考えなかったのが誤りであった。
 雪は降り積もって時間が経つと、自重でだんだん圧縮されて雪が締まるの
だが、その日の雪は前日に降ったばかりの締まっていない雪であった事を計算に入れないで六百メートル足らずの道と甘く見過ぎたのであった。
 だがAスッポンBという長靴の形をした藁靴丈でAカンジキBを持たないものが六百メートルの未踏の雪原を踏破する等、考えられない暴挙なのに、Kにも私にも自信満々であった。その先に生命に関わるような危険が待ち構えていたなど知る由もなかった。
 ところが勢いよくAヤブBに踏み込んだKが「ヒャー」と叫んだ。彼の体が腰の辺りまですっぽりと雪に埋まって居たのである。(やぶと云うのは道のない雪原の事である)私も続いてヤブに踏み込んだが、私の体も吸い込まれるように腹まで沈んで居た。「深いヤブだなあ」とKが云ったが雪が軟らかすぎて足を踏ん張っても力が入らない為に、雪の中に宙吊りになったような塩梅(あんばい)であった。
 本当なら此処で引き返すべきであった。この質の悪い雪に立ち向かってどうなるか位は判る年頃なのに、Kも私も引き返すという事が全く念頭に無かった。「騎虎の勢」であった。
 ところがいざ前進を初めてみると全然勝手が違うのである。足を上げて歩く事が出来ないから、体で雪を押し分けて前に出るのだが、手に取ると軽い雪がいざ体で押し分けて見ると以外に重圧があった。Kと私は交替で先導を勤めながら雪の中を泳ぐように前進した。三〇分程の間、掛け声をかけて遮二無二前に出た。Kも私も疲れて居た。
 どの位進んだか後を振り返った。そして愕然としたのである。道端の立木で判断するとA三夜様Bの前からやっと一五〇メートルしか進んでいないのであった。三〇分以上必死になって前進してまだ四分の一しか進んで居ないのである。今迄の雪道でかって一度も経験した事の無い不思議な事であった。(だがそれは不思議でも何でもない当然な事であった。雪質を考えずにカンジキも履かない行軍ではこうなるのが当然であった)
 夢が遠のいて行くような暗い気持ちであった。だがKはまだ元気があった。「転んで行ってみようか」と云うのである。歩くのが旨くいかないから雪の中を転がって行ってみると云うのだが、私は駄目だろうと思って居た。歩く事さえ困難な雪の中をゴロゴロ転がって進む事など出来ないと思うのだが彼は本気であった。
 漫画のような奇抜な発想だが、それを笑えなかった。彼は彼なりに此の苦境を乗り越える為に苦慮して居たのである。気乗り薄の私の前で大真面目でマントを体に巻き付けて身支度をして居た。用意が出来た。彼は雪明かりの中で私の方を振り返ってAやるぞBと身振りで示した。私が頷くと彼は元気良く雪の中に身を投げたのである。
 ところが意外な事が起こった。転がる筈のKの姿が雪の中に消えたのであった。雪にもぐるだろうとは予想していたが、まるで見えなくなるとは思って居なかった。Kも慌てたと思うが、私は吃驚した。彼が潜って居ると思うあたりを掻き廻してバタバタ暴れて居る彼を引き起こした。彼は雪の中で起き上がろうとしたのだが、マントを体に巻き付けた為に立てなかったのであった。奇想は見事に失敗した。普段なら此所で大笑いになる筈であったが私達は笑えなかった。そんな余裕はなかった。
 再び雪と格闘するように最後の力を振り絞って二〇メートル位前に出たが、其処までが限界であった。前に出ている心算でも実祭にはもがいてみるだけで全く前に進んで居ない事が判ったのである。総てが誤算であった。こんな所でこんな形で挫折するとは考えられない事であった。
 毎日見て慣れきって居る雪がこんなに恐ろしいものである事を初めて知ったが、もう手遅れであった。今となつては引き返しても結果は同じである。Kと私は腰まで雪に浸かりながら、なす術もなく並んで立っていた。
 マントは裏も表も雪で真っ白であった。股引きも着物の裾も濡れて居た。空腹と疲労と寒さで立ち竦んだ私達の目に部落の家々の窓から暖かそうな灯が見えた。たった四百m先の原の部落が二キロも三キロも先のように見えた。
 父も母も私が今、こんな所で遭難しかかって居るなど思っても居ない筈である。たった一つしか無い電灯の下に集まって、夕食の膳を囲んで私の帰りを待って居る父母妹弟の顔が浮かんだ。あの時、三夜様の前から引き返し国道を帰って居たら、今頃は家に帰り着いて家族の中に入って夕食を食べて居る筈であった。後悔が胸を噛んだ。
 Kが突然部落の方を向いて「オーイ」と叫んだ。彼は何事でも私より早く気が付く子供であった。今は救助を頼むしか方法が無い事を知ったのである。私も一緒になって「オーイ」と叫んだ。だが、いくら叫んでも部落の中からは何の反応も無く不気味な程静かであった。
 冬になると雪国の家は外側を厳重に囲って仕舞う為に、私達の必死の叫びも家の中に届かないのであった。何十回叫んだか分からないが結果は同じであった。A遭難Bと云う言葉が頭をかすめた。それは最早、他人事ではない。この侭でいたらKも私も此処で遭難するのは時間の問題であった。Kと私は無我夢中で叫び続けた。
 其の時「お前達は誰だ」と云う声が思いがけない方角から微かに聞こえた。それは原部落から三百m程北寄りの「袖原」と云う一軒家で、声の主は、私達が小学三年生までお世話になった岩山冬期分校の「関口」と云う先生で、奥さんは私の母と従妹であった。
 私達が名前を告げると「今助けに行くから頑張って居るんだぞ」と云う先生の声が、天からの救えのように聞こえた。私達は腰まで雪に浸かりながら「良かったな」と手を握り合った。
 だが、助かったと思った途端に緊張感が無くなって、動いたり怒鳴っていた時は感じなかった寒さがドッと全身を包んだ。濡れた股引き、凍った着物の裾から入る寒気は体全体が氷柱になつて仕舞うような恐ろしい寒さで私達は雪の中で足踏みをしながら救いを待って居た。
(履物が藁の長靴でまだ良かったのだ。これがゴムの長靴であったら、中に雪が詰って足が先に凍っていた筈である)
 やがてA袖原Bの玄関からAホウヅキBのように赤い小さな提燈の灯が現れた。先生が助けに来て呉れたのである。私達は祈るような思いで其の灯を見つめて居たが其の灯はまるで止まって居るかと思う程遅かった。先生もカンジキを履いて居る為に、急いでも早く歩けないのであった。
 気がつくとKが黙って俯いて居た。声を掛けると彼はぐったりとして眠ろうとして居たのである。雪の中で眠ったらそのまま死んで仕舞うと何かの本で読んだ事がある。Kを死なせてはならない。私は力いっぱいKの体を揺すぶり続けた。
 先生の提燈の灯がやっと部落に着いて、家々から幾つかの提燈が現れ、それが纏まって私達の方に向かってのろのろと進んで来るのを認めた頃から私の気力が衰えるのが分かった。
私が近づく提燈に向かって何か言ったらしい。提燈の灯が大きくなって「居た」「居た」と云う声が聞こえ、幾つかの灯が私達を取り巻いた所までしか記憶がない。
 父に背負われて帰った事も、家に帰って着物を着替えさせてもらった事も、飯を食べたのも何一つ記憶にない。ただ寝床に寝かされて、眠りに落ちる前に母が枕元に座って私の額に手を置きながら、「馬鹿な事をして、死んだらどうする」と云った言葉が夢のように耳に残って居る。