小千谷地域と近隣のまち・むらを結ぶ

失われゆく雪国のくらし


(この原稿は平成11年度に寄せられたものです。『小千谷文化』第162号・163号合冊にも掲載されています。)


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≪寒念佛修行≫
文・矢久保徳司

 小千谷町各宗寺院の寒念佛修行団に参加したのは二十二歳、昭和二年一月二十一日頃の大寒入りであった。午後六時頃、集合場所の裏町成就院へゆくと、庫裡の囲炉裏端で到着順に記名し、持ち物を選んでいた。持ち物とは「寒念佛修行團」の弓張提灯、鉦と撞木(しゅもく)、瞽女(ごぜ)のかける袋に似たもの、虚無僧のかける箱のようなものである。午後七時頃、人数が揃い、支度が整うと出発である。参加者は各寺院の青年僧、魚沼孤児園の役員や商店員など二十名前後であった。
 成就院前の道に一列縦隊となり、「南無阿彌陀佛」と大声で唱和しながら、鉦を叩いて四軒小路から本町へ、雁木の両側をニ隊に分かれ、更に弓張、鉦叩きを含む三人以上の小隊に分かれて裏通りの各家の前を通った。旭坂をくだると川岸町に右折し、下タ町、天竺町、船岡町へ、遊廓を回ると船岡町を通り、午後九時頃には成就院へ戻った。此処で米とお金を分けて集計する。米は一升枡、五合枡、一合枡で計って何升何合、お金の貨幣単位が一銭二銭銅貨、5銭の白銀貨、十銭、五十銭の銀貨、一圓札、五園札、十園札で何十園何十何銭、稀には文久銭や寛永通宝などの穴明き銭も見られた。各戸から寄せられるお金は一銭、二銭と零砕なものの集積であった。
 計算が終わると記帳し、夜食を頂いた。温いお粥(かゆ)、沢庵、味噌汁など簡素なものだった。
 翌晩も前夜と同じ要領で町内を巡行したがその方向は違い、本町通りから曲がらずに、旭橋を渡った。信濃川本流の激しい流れに向かって一同立ち止まり、衆僧の読経があった。東小千谷の上越線東小千谷駅前から引き返し、末広町を回って再び旭橋を渡り、帰りも信濃川の橋上で読経した。その後は前夜と同じ要領の繰り返しで、寒明けの二月まで続けたのである。集合場所は成就院だけでなく、照専寺、慈眼寺の当番のこともあったし、夜食の攝待は寺院のほか、タ三さん、角三さん、山政さんなど在家の好意によってご馳走になったこともある。
 此の頃の道路事情を思い出すと、冬は十二月末に根雪となり、翌年四月初めの春まで融雪しない。一月から二月中旬頃での降雪は堆積し続ける。積雪期は全く車輪が用をなさず、橇に替えられる。人力車でも、ポンプ車でも、そして東小千谷駅前通り、旭橋、町内主要道路は橇道となるが、屋根の雪掘作業中は一時的に杜絶し、裏通りは掘り落とした雪を均(なら)したとしても山坂となって橇は通れなかった。
 雪国特有の雁木は冬の生活環境によって設けられたものだが、当時の雁木は本町、寺町の西側、横町の片側、土川(寺町の続き)船岡町の片側などに限られていた。木造の雁木道路端から雪が転びこまないように、落し板が嵌められていた。四軒小路角、ニ荒神社前など道路から雁木に移る個所は雪道が高くなると坂となり、路面が凍結すると滑って危険だった。しかし猛吹雪や降雪の激しい時には雪踏みの必要もなく安全道路となっていた。大寒、小寒。余寒と寒中は降雪量が多く、酷寒の季節である。従って雁木のない処では雪が降れば毎朝門雪払い、道踏みをしなければならない。道踏みは隣家との境か道路まで、雪の降り方によっては朝に限らない。日中でも夕方でも随時行った。
 屋根や雁木に積雪が重くなると掘り落した。この作業は「かんぢき」で足許をかため、「こすき」または「こしき」と称する木製の用具やシャボリをつかった。屋根から軒下に投げるので家屋の周囲は堆雪に埋められる。雪掘り作業のあとの雪道を整備したり、窓明けの跡始末が伴っていた。
 雁木通りのない旅屋町、鉄砲町、河端、清水端などは人家が稠蜜で、道路狭く通りにくくなる。東小千谷の中子、山寺、生地内は軒を並べる町屋敷を形成してなかった。北原、天竺から船岡町の間も杉森、桐林などで人家は少なく、栄町などはなかった。昼間はとにかく夜間の雪中歩行は極めて困難を克服しなければなかった。
 雪は来る日も来る日も間断なく降り積もることもあれば、吹雪くこともあった。冷たい雨が降ったり雷鳴も聞こえた。星の降るように晴れた夜は酷寒に え橇道は凍結して氷上を思わせた。
 まだ電話は官庁、学校、商店などにあっても一般住宅にはなく、ラジオも殆ど普及してない時代の夜は静寂そのもので、明るいところは芝居の上演される明治座。花柳界と称せられる界隈、南新地とか桐畑といった遊廓だが、極寒の夜は人影を見なかった。寒念佛修行の列は分かれたり、寄り合ったりして巷から巷を抑揚のある声で念佛を唱えて各戸を巡った。鉦の音が乱れても一致して、その韻は小千谷の家並みと天地山河に響くように思えた。固く門戸を鎖して寝静まる家もあれば、家の中から「あげます」と声をかけて一握りの白米を袋に入れてくれる人もあった。鉦の音を聞えて門(かど)に立ち、一行を待っていてくれる家など、その善意に感謝するのであった。
 僧俗ともに同一行動をともにすることによって団員相互の信頼、親密も深まった。寒冷風雪に耐えて修行を遂行し得たことに喜悦を感じるのであった。期間最後の夜は照専寺で白米と金銭の総計が報告され、本堂の読経に列座して終了した。解散後に寒念佛の経費がどの位かかったのか、白米は金銭に換算して社会事業に寄託されたであろうが内容は知らない。冬が来て寒くなり降雪期になれば恒例の寒念佛修行団が出たので参加しつづけて行った。
 毎朝の冷水摩擦は十七歳から始めて二十八歳まで続け、冷水浴もした。寒念佛に参加していた頃は冷たい身体でそのまま就寝していた。夜食も遠慮して早く帰ると冷水浴をし、冷水摩擦、乾布摩擦をしたことある。寒念佛修行に参加したのは好奇心と集団的耐寒訓練によって心身を鍛える事が出来ると思ったからであろう。何年頃にやめたか覚えていない。三十歳代は戦時下で、多くの青年は軍隊へ工場へと駆り立てられた。燈火管制では日没以後の灯明は遮蔽しなければならなかった。梵鐘、佛具も供出させられる時代であった。
 寒念佛は俳句の季題になっているのだから昔から各地で行われた民俗的な年中行事であろう。小千谷の寒念佛の歴史はどうか、戦前までの記録、佛具資材がどうなっているか、戦後のこともよく知らない。昭和初期から戦前の実情から推察すると、大正時代には郷土における冬の年行事となっていた。寺院側の恒例であり、一般住民も寒念佛が来たならば喜捨することが慣行になっていた。この風習は一朝一夕のものでなく、長い歳月にわって培われ、盛んになった。寒念佛修行に参加した個人の服装は自由でも、提灯、鉦、容具などの資材は長い年月の間に整えられたものように思えた。
 大正時代から昭和初年には旭橋をはじめ街路灯がなかったから、夜間の歩行に提灯は必要であり、殊に雪中は重要で、手提げの提灯とか六角、小田原提灯があった。弓張りの使用は格式のある家か官庁、団体、祭礼などに限られたのだった。鉦も御詠歌や佛檀の佛具として小皿くらいの小さいものだが、寒念佛には念佛講、庚申講などに使用した中皿くらいの大きなのを、首にかけられるように紐をつけてあり、その音色は微妙に違っていた。喜捨を受ける箱や袋の揃ってなかったのも、年々補充して保管されたように推測していた。
 雪は年々歳々降っても降雪、積雪状況は異なっていた。寒念佛という年中行事もその盛衰があったであろう。人同じからず、己にも若い日の想い出がある。老残九十三歳の今日を生きたのも、あの頃の寒念佛修行や、スキー登山など耐寒行為があったからであろうと思っている。
 年輪とは寒冷の冬を越した樹木に刻まれる。熱帯の樹木は年中成長して年輪がない。温帯の樹木は成長しない冬に年輪となって残って行く、人生また同じである。


≪スキーと子供と小学校≫
文・羽鳥孫市

 昭和の二ケタ生まれ、私達の小学生(当時は国民学校)と言った。「欲しがりません勝つまでは」戦争と耐乏生活の中での国策は「産めよふやせよ」でもあった。一軒の家の中で、スキーを持っている家庭は良い方で、一台のスキーを兄弟が使い合っても間に合わず、校内スキー大会でも半数以上はかんじき部隊であった。
ゴム長靴等も配給で、五十数人のクラスに三足か五足の割当てをクジ引きでうばい合いをし、登校の下駄箱には半分以上がワラぐつやスッポンであった。皮バンドの付いたバッタンのスキーを使用しているものは数えるほどしか居なかった。十年一昔といわれる昭和の四十代の後半から三人の子供達が小学校のスキー大会で活躍するようになった。市の親善スキー大会に長女達が出場するようになり、父兄の立場で応援に借り出されたが、一昔も二昔も変わった市の大会場では、タダタダ驚くばかりで何のアドバイスも出来ない親であった。
他の学校ではOBやスキー部の先輩達がその日の雪質にあったワックスに塗り替えたり、使い分けを手伝って指導していたが、当時の真人小には選手の控えるテントが無くて、夏の金魚屋の出店に使う竹竿に(羽鳥農園)のシートで屋根をかけて溜り場を作った。スキーの搬送は葛屋金物店のトラックでお願いして、こちとら父兄はアノラックのポケットに忍ばせたウイスキーを飲みながら「ネラ頑張れ!」と気合をかけてるのが精一杯の応援であった。それでも真人小は強かった。最後のリレーはワックスに失敗して、高下駄を履いたようなスキーでバッタンバッタンとかけて三位に入賞したのが、長女達六年生最後のレースであった。長男も五年生になると選手になり、練習では校内一位で期待されていたが、大会直前にカゼを引いて寝込んでしまった。担任の体育主任の先生が見舞いに来てくれて「個人のレースは出なくていいスケ、お父さん、リレーの時間に連れてきてくれ」と頼まれると、親バカが飯を食わんで寝ていた長男を連れて雨の日の会場へと急いだ。この日も真人小は強かった。二位で六年生からタッチさせたアンカーの長男がトップでテープを切って入る作戦であったが、結果はさんざんで四位でゴールするや、その場へへたばり込んでしまった。大会前から父兄宅を泊り歩いて特訓で張り切っていた体育主任と酒の入った反省会ではカゼを引かせた親の責任にまでツケが発展してアワや血の雨が降りそうな雲行きになった……。
二男の頃になると親も打算的になり、成績もまあまあなのでスキー用具もすべてが姉貴や兄貴のお下がりで間に合わせて、無駄な出費をしないで小学校を終わらせようと楽観していた。
校内スキー大会の朝も、二男は「ノオー俺は間違っても二位は確実だぜ」と自信たっぷりであったが、勝負は逆転した。レースの途中で金具がとれてしまった。片足のスキーで泣きながらゲッポ(ビリ)でゴールして来たオジにタマげて、昼休みに「久」商店で金具の取り替え騒ぎをしてもらう結果に終わった。
スキーを通じて三人の子供と体験した想い出はアテが外れた口惜しさだけだが、今でもスキーは好きらしくて、奇妙な戒名のグループに存在している。その名は滑転圓来(スッテンマルク) 花嫁さがしのスキーツアーを企画したり、海外スキーのメッカ、カルガリー迄遠征をしたり、冬ごもりどころか雪を見ると水の中の魚のように動き廻っている子ムジナ達……、そして小学校、中学校とそれぞれのサイズの中で務めを果たしたスキーや靴等々、昭和の二ケタ生まれの眼にはもったいない。無い袖をはたいて買い揃えた器具が御用納めで物置の片隅で眠っている。サイの神でスキー供養でもするか、家庭菜園のナスやトマトの支柱にでも化けて最後のお務めを果たすしか、縁の下の力持ちの出番は無い時代になった。

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とおちゃんへ
ファクス届きました。
スキーの話、なつかしく拝見しました。今は私がそんな年頃の子どもを持つ親になりました。子どもと一緒にいろんな行事に参加できるのももう少しです。今を大切に楽しんで子育てをしようと思っています。
そして子どもが自分の世界を持ち始めたら、私も自分の世界を広げたいと思っています。
いまを大切に楽しんで生きましょう。我家にも務めをはたしたスキーがあります。私も親の気持のわかる年齢になりました。スキーが立派になっても親の気持は一緒ですね。くれぐれもご自愛ください。みんなの幸せを祈っています。

芳美