≪十二月の事の木札の由来≫
文・石曽根いわ
昭和六年正月まで私の生家では、小正月の十五日未明に「もっくらもち追い」の男の人の行事をやりました。前日の夕方家の周囲の雪を踏んで道をつけておいて、翌朝は道を踏み直し始めます。男性だけの行事だが子供だからと一回私は仲間に入れてもらいました。
行事の準備は一月十一日朝食後に小正月用の「だんごん木迎え」に白米と餅を持って男の人が山へ行き、無病息災を祈って木の元に供えて、お祈りして木を切って持ち帰り、木の元を十五糎位に切り、それを一糎位の厚さに鉈で割って面を少し滑らかな板にしておく。十四日の夜その板に「十二月の事」と書いておく。十五日の未明に家に入れる戸口、玄関・前玄関・座敷の前口・座敷の上(かみ)の口・寝室の縁側の口二ヶ所・内間の口・流し(炊事場)の口・臼引き場(粉ひく)・荷屋(作業場)の口と十ヶ所に、行列の先頭に「てまり提灯持ち」次が山おとな(作頭)が木の札を戸口へ一枚づつ置いて行く。その後に拍子木を持って打ち鳴らし役次から、藁打ち槌を縄でしばって引きずりながら子供も入った男衆が「もっくらもちはどこへ行ったそこらへいたらかっつぶせ横槌のおっとりだ」と繰返し繰返し拍子木に合わせて大声で言いながら家のまわりを三回まわります。この木札がどうゆう意味があるのかと、嘉永(かえい)生まれの祖父に聞きました。
昔百姓村に、正直で真面目な一家があって、夫婦親子が仲良く百姓仕事に勢を出していたのが父親が体の具合が悪くなり、仕事が出来ないので困っていたと、十二月二十五日の夕方、父親が「正月もきたのに俺が病気で仕事が出来ず、銭の貯えも無いので神様に供える塩鱒や昆布も鯣(するめ)も年とり魚も買うことがならんし、餅搗いて福で餅を供えることもならんし、買物した店へ節季はらいもしらんねえで困るなあ」と夫婦で話し合っている時、玄関の方で潛り戸が、がらがらあく音がして「今晩は居たかえ」と声があったので、母さんが上がりたてに出ると赤い顔をした大男が立っていて、「ほこん衆は父っあんが具合が悪くて正月が来ても困っているそうじゃないか、俺が銭を貸してやるが」と言うので、父っあんを呼んで話を聞かしでもらったが、一月に入っても返せる見込みがないと言ったら「じゃ小正月の十五日でいいぜ、親類衆へ頼んでみたいの」と言ってお金を置いて帰ったと。父っあんはお金はほしいが返すのが困って心配なので、村の智恵ある物識りのお年寄りの家に相談に行ったと。そうして一部始終の話をすると、「それじゃ小正月の夜明け前の「もっくらもち追いの時「十二月の事」と書いた木札を作り、入口の屋根の所におくがいい、村中も隣村も先々の村まで布令を出して協力してもらうからと教えてくれたと。
一月十五日に借金とりにきたら、おら方の村じゃまだ十二月だいの、隣近所もそうだいの」と言うたがいい。そうして翌月になれば布令(ふれ)を出しておくから「二月だえのう」と言うたがいいと教えて力づけてくれたと。
二月十五日に借金とりがきて近所に行って聞いても、今は二月だということがわかって、しぶしぶ帰ったと言うことだった。いつ頃から伝わってきた行事であったか不明なのであったが、生家では昭和六年一月十五日まで勤めていた。
【参考】
昭和六年には満州事変が起こり、世情が波立っていた。
我が生家の嘉永二年生れの祖父が十一月二十日他界し、翌十二月十八日には嘉永四年生れの祖母が死去する等、一ヶ月に祖父母の忌中が続く時新しい年を迎える事になり、近所や知り合いの家に聞いてみると、もう昔のことだし事変も起っているので止めたと言う返事なので、昭和六年末で「十二月の事」の木札のことは終わりとなりました。 |