小千谷地域と近隣のまち・むらを結ぶ

失われゆく雪国のくらし


(この原稿は平成11年度に寄せられたものです。『小千谷文化』第162号・163号合冊にも掲載されています。)


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≪大雪今昔≫
文・伊佐郁子

 小千谷駅方面から旭橋を通り、真っ直ぐ本町へ延び、我が家の前を通る国道一一七号線両側にある側溝は流雪溝である。これは、都市計画により国に陳情して出来たもので、坂の町に適した除雪設備として雪国の生活に最も重要な存在である。
 暖冬小雪の近年は、あまり流雪溝に頼ることもなかったが、ゴーロク豪雪(昭和五十六年)の降雪は、前年十二月十三日初雪と同時に根雪となり、一月半ばにして少ない家でも三回くらい屋根雪を下ろした。屋根雪を心配しつつも人夫は皆無の状態で、女子供も屋根に上がりスコップを握った。
 一歩脇道に入ると、屋根雪を下ろしたその上に更に雪は降り積り、二階屋も雪の中に埋まり、その二階から出入りしていた。
 十八年周期に大雪が襲ってくる過去のデータからすると、今年は大雪が予想された。予想通り、大雪警報は二度、三度とあり、彼岸過ぎ一週間に真冬並みの寒気襲来等もあり、やはり地球の温暖化や自転説等と何らかの関連があるものと思われる。
 大昔のことは分からないが、私の記憶では、昭和二十年、終戦となった年は豪雪だった。又、三十八年(サンパチ豪雪)当時は新婚気分の多少残っていた頃であり、昨日の夢の様に鮮明に甦る。
 市より緊急連絡を受け、寝付いたばかりを起こされ、寝ぼけ眼をこすり市役所へ集合した。(市役所は本町にあった)小千谷病院から持ち込まれた大釜のご飯を十数人で、夜明け近くまで夢中でおむすびを握った。いわゆる「炊き出し」を体験した。
 立ち往生した上越線の「急行佐渡」乗員全員が小千谷駅で下車させられたのだった。商店街では相談の上、一軒に一人〜二人を面倒する事になり、我が家では雪を全く知らない関西の人を一週間位預かった。
 蚕糸試験場の積雪に関するデーターに依ると、昭和二十年最深積雪四メートル二十二、三十八年三メートル三六、五十六年三メートル五十八とある。今冬の最深積雪は昨年試験場が閉鎖されたので分からないが、再度の大雪警報に家が潰れるのでは…、と気が気ではなかった。
 市内の除雪体制は国・県・市道を消雪パイプ、流雪溝、機械(ブルトーザー)による方法で、併用又は単独で行っている。
 流雪溝設備は、地形の傾斜が絶対条件であり、各地平場での問題は多くある。
 我が家前道路の雪は機械除雪が大方であり、一晩で積もった雪を、ブルトーザーは夜明け前の薄暗いうちに道端に寄せていく。町内役員から通水時間の連絡を受けると、スノーダンプを持ち出し、決められた時間帯内に雪塊を放り込む。尾根雪を下ろし、道路に山のように積み込まれた全ての雪も同じことをし、掃いたように奇麗にして片付ける。
 九ケ月間の夏場休んでいた揚水ポンプはフル稼働し、茶郷川の水を一気に揚水し、街の流雪溝に勢いよく流し込む。
 今迄じっと耐えるだけだった暗い冬も、克雪宣言により、大勢の力を結集し、克雪、利雪へと変化、進歩した事は近隣山村でも同じであり、長い冬籠もりの藁仕事や機織りも消えていく要因の一つになったと思う。
 還暦も過ぎ、労働しなくなった故か、弱気を悟られぬよう一気に流雪作業をするが、あまり力は出ず、汗ばかり出る始末であるが、又来る冬将軍と対決し明るい冬を願い、健康な暮らしを望んでいる。


≪十二月の事の木札の由来≫
文・石曽根いわ

  昭和六年正月まで私の生家では、小正月の十五日未明に「もっくらもち追い」の男の人の行事をやりました。前日の夕方家の周囲の雪を踏んで道をつけておいて、翌朝は道を踏み直し始めます。男性だけの行事だが子供だからと一回私は仲間に入れてもらいました。 
 行事の準備は一月十一日朝食後に小正月用の「だんごん木迎え」に白米と餅を持って男の人が山へ行き、無病息災を祈って木の元に供えて、お祈りして木を切って持ち帰り、木の元を十五糎位に切り、それを一糎位の厚さに鉈で割って面を少し滑らかな板にしておく。十四日の夜その板に「十二月の事」と書いておく。十五日の未明に家に入れる戸口、玄関・前玄関・座敷の前口・座敷の上(かみ)の口・寝室の縁側の口二ヶ所・内間の口・流し(炊事場)の口・臼引き場(粉ひく)・荷屋(作業場)の口と十ヶ所に、行列の先頭に「てまり提灯持ち」次が山おとな(作頭)が木の札を戸口へ一枚づつ置いて行く。その後に拍子木を持って打ち鳴らし役次から、藁打ち槌を縄でしばって引きずりながら子供も入った男衆が「もっくらもちはどこへ行ったそこらへいたらかっつぶせ横槌のおっとりだ」と繰返し繰返し拍子木に合わせて大声で言いながら家のまわりを三回まわります。この木札がどうゆう意味があるのかと、嘉永(かえい)生まれの祖父に聞きました。
 昔百姓村に、正直で真面目な一家があって、夫婦親子が仲良く百姓仕事に勢を出していたのが父親が体の具合が悪くなり、仕事が出来ないので困っていたと、十二月二十五日の夕方、父親が「正月もきたのに俺が病気で仕事が出来ず、銭の貯えも無いので神様に供える塩鱒や昆布も鯣(するめ)も年とり魚も買うことがならんし、餅搗いて福で餅を供えることもならんし、買物した店へ節季はらいもしらんねえで困るなあ」と夫婦で話し合っている時、玄関の方で潛り戸が、がらがらあく音がして「今晩は居たかえ」と声があったので、母さんが上がりたてに出ると赤い顔をした大男が立っていて、「ほこん衆は父っあんが具合が悪くて正月が来ても困っているそうじゃないか、俺が銭を貸してやるが」と言うので、父っあんを呼んで話を聞かしでもらったが、一月に入っても返せる見込みがないと言ったら「じゃ小正月の十五日でいいぜ、親類衆へ頼んでみたいの」と言ってお金を置いて帰ったと。父っあんはお金はほしいが返すのが困って心配なので、村の智恵ある物識りのお年寄りの家に相談に行ったと。そうして一部始終の話をすると、「それじゃ小正月の夜明け前の「もっくらもち追いの時「十二月の事」と書いた木札を作り、入口の屋根の所におくがいい、村中も隣村も先々の村まで布令を出して協力してもらうからと教えてくれたと。
 一月十五日に借金とりにきたら、おら方の村じゃまだ十二月だいの、隣近所もそうだいの」と言うたがいい。そうして翌月になれば布令(ふれ)を出しておくから「二月だえのう」と言うたがいいと教えて力づけてくれたと。
 二月十五日に借金とりがきて近所に行って聞いても、今は二月だということがわかって、しぶしぶ帰ったと言うことだった。いつ頃から伝わってきた行事であったか不明なのであったが、生家では昭和六年一月十五日まで勤めていた。

【参考】
 昭和六年には満州事変が起こり、世情が波立っていた。
 我が生家の嘉永二年生れの祖父が十一月二十日他界し、翌十二月十八日には嘉永四年生れの祖母が死去する等、一ヶ月に祖父母の忌中が続く時新しい年を迎える事になり、近所や知り合いの家に聞いてみると、もう昔のことだし事変も起っているので止めたと言う返事なので、昭和六年末で「十二月の事」の木札のことは終わりとなりました。