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失われゆく雪国のくらし


(この原稿は平成11年度に寄せられたものです。『小千谷文化』第162号・163号合冊にも掲載されています。)


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≪しみわたり≫
文・柳幸宏

 とかく、雪は暗い冬の生活を思わせる。そのなかで、「しみわたり」は明るい春先の風物詩であり、魚沼の農村の人たちにとって、それは待望の春の前触れの時期ではなかったか。
 「しみわたり」は、春先、雪も納まり雪堀りの心配もなく、雪面がざらめ雪でおおわれる頃、よく晴れた厳寒の朝におきる現象で、夜来の厳しい冷込みで、雪面がカチカチに凍り、さら地でも大人がどぶらないで歩けるようになる。これが「しみわたり」である。
 私は、昭和十四〜五年頃、城川村桜町の駐在所から小千谷の町外れの中学に通っていた。冬の通学路は遠回りする雪道であるが、「しみわたり」の日は、広い雪原を見通して油新田の外れまで真っすぐ歩いて行ける。途中遮るものもなく、はさ木がところどころに並ぶだけ。 振り向くと、わずかに残る靴跡が真っすぐ続いている。それは二点間の最短距離を意味し、さらに、「三角形の一辺は……」と、幾何の定理の証明を体感する気分で「しみわたり」を満喫したものである。
 こんな日の雪道は、路面が凍っていたり凸凹で歩きにくく、雪道に近道はないので時間もかかる。朝は十分間でも貴重である。
 足元に気を取られずに歩く気分は実に爽快。空は抜けるように碧く、耳は痛いほど冷たく、吐く息は白い。真っ白な雪原は太陽の反射でダイヤモンドを散りばめたように輝き、緩やかな凹凸をしめす青い陰影は、武骨な少年にも幻想的な気分に誘い込む。 ときには、風に乗って堆肥の匂いが流れてくる、それは春の土の匂いだ。

 堆肥の匂いは、風上の「こよひき」が近いからだが、「こよひき」も橇道なしで往来できるので作業もはかどることだろう。  堅く凍った雪も太陽が昇ると徐々に軟らかくなり、やがてどぶるようになる。そうなると、「しみわたり」はできず、通学路はいつもの雪道を通ることになる。「こよひき」も後押しがついて二人がかりとなる。

 雪消えが進むと、埋もれていた小川が顔をだしたり、深田や思わぬ所の雪間(雪が一部分消えたた所)から黒い土が見える。こんな場所は、雪面の下が空洞になり、うっかり歩くと落ち込む危険がある。
 親たちはそれを知っているから、子供たちの喜びを遮るように、「しみわたり」を止めさせたり、早く引き上げさせたりする。私の「しみわたり」の通学路もそんな場所に出くわすと、三角形の一辺をゆく心算が二辺も三辺もの距離を歩くことになる。

 「しみわたり」は、春先の限られた期間内の気象条件などが揃ったときしかできないので、A雪消えまでに何回経験できるかBという数少ないものである。
 それだけに、いつまでも心に残るのであろう。
 今は、道路の整備も除雪設備も完備されていると聞くので、もう昔のような「しみわたり」の感慨はないのかもしれないが、思い出すままに。

【参考】
 鈴木牧之の『北越雪譜』は、雪害を強調しているが、珍しく「雪道の橇引きの効用」を紹介している。
 北越雪譜初編 巻之上
     (以下原文に添う)
 『○雪道
(前略)春は雪凍て銕石のごとくなれば雪車(また雪舟の字をも用う)を以て重きを乗す。里人は雪車に物を乗せ、己れも乗りて雪上を行くこと舟のごとくす。雪中は牛馬の足立たざるゆえ、すべて雪舟を用う。春の雪中重きを負わしむること牛馬に勝る(後略)』

 (注)
@ 銕(テツ=鉄の異体字)
A 雪車・雪舟(ともにソリと読み、現在の橇。
牧之は、別項でこれを俗語と注記している)  


≪鮭漁の思い出≫
文・柳幸宏

 昭和二十一年初冬の頃か、田麦山村の祖母の実家に泊り、早朝川口駅に向かったときのこと。手はかじかむように冷たく、落葉した木々も道端の枯葉も路面もさしかかった川口橋の欄干も霜で真っ白だった。
 ふと上流を見ると、二艘の川船が並んで下ってくる。今頃なんだろうと足を止めた。一艘の舟に二人の船頭が乗り、舳先の船頭は櫓を持ち、船尾にいる船頭は竹竿を持っている。もう一艘の船も同じような様相で二人の船頭が乗っている。人数の割には急ぐ様子もなく、川の流れに任せたようにのんびりと下ってくる。遠くにはまだ朝霧が残る厳しい寒さと静けさ。そんな、一幅の墨絵のような風景にしばし見惚れていた。
 と、突然二艘の舟が舳先をぶつけるように近寄った。船尾にいた双方の船頭は、咄嗟にそれぞれ持っていた竹竿を巻き込むようにして片方の舟に手繰り上げた。あっという間の出来事だった。
 鮭網らしい。朝日にきらきらと輝く大きな鮭が、すごい勢いで飛び跳ねる。船頭はそれを押さえ込み、手にした棍棒で鮭の頭を叩く。コーンコーンとその音は川面に響き渡り、辺りの静寂を破る。やがて動かなくなった鮭は、舟底に無造作に置かれた。
 そしてまた、二艘の舟は、先程の勇壮な鮭漁など他人事のように、ゆっくりと川を下る。近付いた舟を橋の上から見下ろすと、船底に四〜五本の鮭が横たわっていた。その日の収穫であろう。もう一度見たいとしばらく眺めていたが船は遠く離れてしまい、二度と見ることはできなかった。
 これが、初めて見る鮭漁だった。一瞬の出来事で、今では記憶も定かでないが、要約すると、船頭と漁師(船尾の船頭と思った人)の乗った二艘の舟がペアとなり、双方の船頭は鮭の通り道を探りながら、鮭網の幅を保ちつつ船を並行させながら川を下る。漁師は船尾で、お互いに竹竿(双方の竹竿の間に横断幕のように網を張ってある)を川に沈めながら、鮭のかかるのを待つ。鮭がかかると船頭はさっと舟を寄せ、漁師はかかった鮭を網に巻込んで手繰り上げ、鮭の頭を棍棒で叩き舟底に置いた、ということになる。
 船頭と漁師の四人の息がぴったりあった「静中動」「動中静」の絶妙の業はまったく見事なものである。

 鮭漁にこんな漁法があるのか。辞典の「刺し網」の一種「流し網」のようだが、そのものずばりではない。 『北越雪譜』に、梁(やな)とつづを組み合わせたような「打切りとつづ」や「掻き網」が紹介されているが同じ漁法ではない。とすれば、『北越雪譜』以降の新しい漁法なのだろうか。
 鮮烈な思い出ではあるが、途中からだんだんと真偽の程が気になってきた。まさか、私の記憶違いではないと思うが、川口地方の方や鮭漁に詳しい方のご教示をお願いしたいものです。

【参考】
 鈴木牧之の『北越雪譜』に「船頭が鮭の頭を叩く棒について」次のように述べている。
 北越雪譜初編 巻之下
      (以下、要約)
 『○打切り並びにつづ
跳ね狂う鮭を魚槌(なつち)で一打うてばたちまち死す。奇なることは、この魚槌は馬の爪を切りたる槌にあらざれば死せず。また鮭の頭に打つべき所ありと漁夫はいえり』
 この説明では「魚槌で一打ち」とあるが、私の記憶のコーンコーンという音は一打ちではないので、川口の鮭漁は牧之のいう魚槌を使っていなかったか。それとも、記憶違いでコーンと一打ちの音だったのか。 というわけで、なおさら真相を知りたくなる。