小千谷地域と近隣のまち・むらを結ぶ

失われゆく雪国のくらし


(この原稿は平成11年度に寄せられたものです。『小千谷文化』第162号・163号合冊にも掲載されています。)


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≪失われゆく雪国のくらし≫
文・広井忠男

一、春木(はるっき)
 かって燃料は、日々の暮らしに不可欠の大事なものであった。それは灯油やプロパンガスが普及する昭和三十年前まで不変であった。割り木やボヨのニオの数も、重要な財産だったのである。
 雪国の春。雪が固くしまっている頃から、春耕が始まるまでの間の春木(はるっき)、ボヨごったくは、農家にとって、とても重要な労働だった。農作業の手回しと、雑木に水分が昇る前にボヨ切りをするという、二つの意味があった。
 父は山鋸、鉈、鉈鎌の手入れを入念に行った。とりわけ鋸の目立ては、木挽き職のプロに頼んだ。藁で作ったAテゴBの中に春木の道具を背負い、弁当も入れて山に向かった。残雪がところどころに固まり、テテッポイ(しょうじょう袴)の薄紫色の地味な花が咲く脇でボヨ切りは始まる。
 太めの立木は山鋸で倒し、木呂に切る。一番太い部分は、マサカリで立ち割った。マンサク、ナラ、クヌギ、椿、アンニンゴなどの雑木は鉈でガッツンガッツンと切った。長めの木は途中で切り倒し、扱いやすい様に丈を揃えた。細めのつつじなどの木々は鉈鎌で刈った。村々によって長さと束の大小に差があった。山道の狭い二十村郷では短めの丈にしていた。束ね用に雑縄、つなぎ藁なども持参したが、”ねじっき”という柔軟性に富んだ細木で、器用に束ねた。  山と積まれたボヨの束を女、子供はキンニオ場に運ぶ。陽当たりと風通しの良い場所が選ばれた。雪の下に押されたカヤのハネスを刈り、積んだニオのカサ(屋根)とし、雑縄で押さえる。熱炭の中で焼いたカタモチや豆煎りを食べて一服する。梢に山鳩がテテッポイポイと鳴き、山鳥の親子が一列になって木々の間を走る。青空にハヤブサが悠々と舞う。
〈杉枝おろし〉春木の他に杉枝おろしの作業があった。はしごをかけて杉の下枝を払い落す。杉っ葉も大切なAたきもんBだった。
 自家の杉の育成と燃料確保の為におろす場合と、山持ちの旦那衆の枝打ちを請け負い、駄賃におろした杉枝をたきもんに貰うケースがあった。火力が強く杉葉は良く燃えた。五ヶ村の本村であった小栗山区は金倉山に、村の共有林A野山Bがあった。
『山の口があいたぞー』の村内の触れで競争の春木が始まる。夜明けから、日没まで手元の見えるうちは、自由にボヨ切りが許される共存のルールがあった。太い立木や楢のような良いボヨだけの拾い切りは出来ない。端から順序よく刈ってゆかねばならない。
 この日の内に、一定の場外に刈ったボヨは運び出す義務もある。切りっぱなし、積みっ放しは不許可なのである。乱伐と盗み切りを防止する為であったのであろう。とにかく山の口のあいた二〜三日は戦争だった。子供も全員学校へは行かない。二食弁当持参で一家でボヨを切り、場外へ運んだ。それでも、たきもん事情の悪い村にはAけなるいB(羨ましい)限りだった。不足の村は、杉っ葉拾い、枯木拾い、カヤ刈りなどで補足しなければならない。
 信濃川対岸の村々では、大水の時に腰縄をとって川に入り生命がけで流木を引っ張る。ヨリッ木(流木)を河原に積んで小石を載せて所有を主張する。真冬の風の日かんじきをかけて、雪原を走って杉葉拾いをする話などを聞くと「おらほうは いいね」と言い合った。浦柄村からボヨを買って、渡し舟で運ぶ風景も見られた。田畑の狭い山村には、天は公平に燃料、山菜、茸などの恵みを分配したのだった。例外は常にある。
 山古志村油夫(ゆぶ)集落は昔からボヨ山がなく主婦は難儀した。いぶるたきもんが多く、「油夫には嫁にくれるな」のセリフもあった。「区長の当り年にはニオを一つ余計に作る」とも言われた。食料に次ぐ重要物だったのだ。生の雑木を、山腹に掘りこんだ鍋型の土穴に積みあげ、火を放ち、残土をすっぽりかぶせて作る「かじご」炭作りも晩秋の燃料確保の一作業であった。一冬中の炬燵に使用する為だ。その頃はまたボヨ出し(運搬)の大事な時期でもあった。冷たい朝露を踏み、一家総出で朝仕事としてボヨを運んだ。荷縄を肩に食い込ませてボヨを負(ぶ)いながら「早く子供達がでっこくなって手伝ってくれるといいが」と親がつぶやいた時代は遠い昔になった。

二、かくせつ
 晩秋。一年の収穫を終えた若い衆の最大の楽しみは「かくせつ」だった。宿を決めて寄り合い、飲食を共にする合宿である。
 東山あたりでは一泊二日、時には二泊三日のおごった日程で行われた。材料は一切が持ち寄り。米、餅米、大豆、小豆、野菜類、炊き物、調味料類も均等割の持ち寄りである。 ごっつおは当時としては最高の名月ごっつおの餅、おこわ飯、肉汁、豆腐汁などであった。料理は勝手人として村の女衆を頼んで行った。終戦直後の物不足の時代、砂糖が思うように手に入らなかった時代には、餅は美濃柿の熟したもの、丸干し柿のポッタラポッタラした甘みで食べた時代もあったようである。遊び心半分、競争心もあって二十六個食い、一日柱に寄りかかっていたなどの笑い話も今は懐かしい。
 子供の天神講と違うところは屈強の青年団の会食である。酒が不可欠。手に入らない時代にはドブロクを作ったり、村内の名人に依頼したりもした。青年団の手持ちの金も少しはあった。角突き(以前はその村の青年団が請け負って開催した)、盆踊りの花祝儀、演芸会をした時の花、その他、村に何ヶ所かあった、ワレ物などの危険箱の管理をして区から出る若干の手数料も貯めてあった。
 二日間分の酒二斗を最初の一晩で全部飲んでしまい、後はポレポレとしていたと言う話もあった。当時、肉はとにかくごっつおだった。老鶏、家兎がひねられることもあったし、緬羊を一頭つぶすこともあった。肉の半分は、村の各戸に注文をとって売り、その差益金を支出に当てることもあった。緬羊の肉は温かいうちは柔らかくて旨いが、北国の晩秋、さめるとローソクのように油が固まり始末が悪い。
 入団したての小僧っ子を先輩がからかって「肉はここが一番旨いあんだ」などと腸やいかがわしい部位の肉を食わせる。噛み砕くのに時間がかかっている間に、年長者がみんな上肉をたいらげていた。それでも楽しくてしょうがなかった。
 酒宴、会食の合間は花ガルタ、ギター、数の少なかった蓄音機を旦那衆から借りて来て聞く。腕相撲、棒倒し、将棋などにも興じた。
 晴れれば錦鯉のいけす回り、角突き牛見などにも出かけた。小千谷や長岡の町に映画見に行く者もいた。昼、夜の食事時はドンドコとA寄せ太鼓Bが打たれた。この音で村内に散らばった者は参集した。何しろ当時青年団員は多かった。跡取りとしての長男は勿論在村していた。これに雇用難の次、三男も多く実家にいた。女子青年団もあり、男ほど派手ではなかったが「かくせつ」は行っ た。  当時の村青年団の記念写真を見ると、数十戸の村にこんなに多くの若い衆がいたかと思う位の人数がいて活気もあった。バレン房のついた団旗もあり、堂々たるものであった。当時の青年はとにかく良く稼いだ。
 百姓仕事のほか土方人夫、日料取 り、冬出稼ぎと働きに働いた。勝手に仕事を休んでふーら、ふーらしていれば「ノメシコキ」の烙印が押された。ほんのたまに雨天続きの後に晴れた日のA陽気休みB、逆に干天続きの後に降雨のあった日のA露気休みBなどは若い衆が区長に依頼して許可をもらう願い休みはあった。。
 春、夏、秋一年の激しい労働が終り、出稼ぎ直前の晩秋に開催された「かくせつ」は盆正月が一緒に来た楽しさであった。合宿会食のこうした団体生活を通じ、先輩は後輩に多くのものを教えていったのだった。この「かくせつ」も、昭和五十年前半を最後に農村社会から消えてゆく。
 スタイルも町に出ての宴会、海水浴、さては長岡のキャバレーで一晩遊んで終りの「かくせつ」となった。何よりも青年団がなくなった。就業構造の変化は農家の長男を勤め人とし、職場の組合、サークルの付き合いが中心になっていった。盆踊りや祭りもAあんにゃ会Bや区の主催に移行せざるを得なくなつた。
 酒癖の悪い仲間に臼をかぶせた、あるいは、みの中に入れて運び布団に寝かし付けたなどの愉快な「かくせつ」話は、遥かに遠くなってゆく。

三、天神講
 雪降り続く北国の二月、子供達に天神講の行事があった。いうまでもなく、学問の神様菅原道真公、天神様をお祠りし、習字が上達するように、勉強が出来るようにお参りするのが、その目的であった。
 村によっては天満宮の絵や書の掛軸、なければ手書きの「菅原道真公」を飾り、祈願の対象にしたところもあったらしい。
 わがふるさと、旧二十村の東山あたりは派手派手しくやった。おそらく青年の「かくせつ」を真似たものと思うが、ごっつおを作って会食を楽しんだ。
 土堤のスカンポ ジャワサラサ 春には蛍がねんねする、僕ら小学六年生 今朝も通ったこの道を スカンポ スカンポ土堤の上、春だ春だよ ジャワサラサ をオルガンに合わせ金倉山に向かって歌っていた。六年生のときだった。
 一年上級の中学一年生から、一緒に天神講をやろうと声がかかった。さらに先輩達は中学二年、三年男女合同でやっていた。中一はまだジャリ(年少)のために、仲間に入れてもらえないのである。仕方なく小六の男子と合同でやった。宿は初雄の島蔵宅。
 餅米、ウルチ米、小豆、大豆(豆腐用)、野菜、調味料の砂糖、塩、醤油まで一切を少しずつ出し合っての寄り合い講だった。味の素はまだあまり普及していなかった。薪、ボヨまで集めた。講仲間八、九人の家を順次回り、これらを集めるのだが、これが又楽しみだった。
 三月になればお寺のダンゴまき(ねはん会)が来る。お寺の手伝いで米集めにはなれている。ワイワイと陽気にはしゃいで、天神講の材料集めをする。昼食と夜食を共にする一日天神講は、おこわ飯とケンチン汁だった。宿のお母さんに教えてもらいながら、ワンパク坊主どもが料理を作った。当時の日常の食生活からすると、これらのメニューはAハレBの日のごちそうだった。
 食事以外は、炬燵に入ってカルタ、トランプ、将棋に興じたり、相撲、なぞなぞ等を楽しんだ。夜ふかしして村の仲間と一日を楽しみ、暗い雪道を、自分の茶碗、箸などを持って家路に向かった。二月の寒月は寒々として梢に高い。
 翌年は異変が起きた。今年は中一の男子四人、女子六人全員を含めて、中学生全員でやるという。中二、中三合同の従来の慣行は崩れた。理由は簡単だった。中一の女子に可愛い娘が多く、バレー部等で活躍していたのだ。我々男子は、そのお陰で仲間に入れてもらっただけなのである。
 老夫婦だけで、家の大きい富蔵家を宿にして、一泊二日で賑々しく天神講は二月に行われた。六十戸の村に中学生は三十余名もいた。中三の兄貴分達の中にはとっつぁ面(づら)をして、声変りした者もおり、餅を幾臼も搗いた。土曜の昼から日曜日の昼まで一泊四食の合宿宴会だった。食事の合間の遊びは去年と同様たわいないものなのだが、女子と胸をドキドキさせて腕相撲に興じたり、カルタの手がふれたりした。思春期に入っていたのである。三月になれば、卒業式は間近。中三は家の百姓を継ぐ長男以外は、皆県外へ職を求めて散って行った。エプロンをして料理をする女子達も大人おとなしていたと思う。
 翌年は、隣村の仲間が少し派手にやりすぎて「風紀上問題あり」とのことで、中学校より中止指示が出た。隠れてこっそりやった村もあったが、わが村には僧職の先生がおり、その娘もいて、やるわけにはいかない。みんなガッカリした。隣村の先輩達を腹いせに村境でやっつける発案まであった。天神様も梅の開花を前に悪童達に苦笑しておられたことと思う。
 今思い返しても、何と楽しかったことか。集団、分業、合宿の中で、年長者は村の後進達に餅の搗き方、料理も含め、多くのことを教えてくれた。いじめは全くなく、ケンカも少なかった。天神講には、地域社会での学習があったと思う。ワイワイと三十数人で会食をした友たちも、その後一回も会わない人、鬼籍に入られた人もいる。半世紀の歳月が流れ去ろうとしている

四、集団就職
 A集団就職Bという言葉は、わが県の昭和十四年生まれの人達が、昭和三十年春に中学校を卒業し、世田谷区の商店街に集団で上京、就職したことを嚆矢(こうし)とするらしい。高校進学率が全国平均五〇%、新潟県三〇%、農村部ではまだ一〇%くらいの昭和三十年代、農家の跡取りである長男を除いて、大半が就職だった。地元小千谷市の鉄工場、食品工場、中越バスの車掌になる人もいたが、大半は関東をめざした。県人の多くが首都圏にいてツテがあったこと、将来独立するにはやはり大都会の方がいい、賃金も高かったなどの理由 もあった。
 三月二十日前後の卒業式を終えると、翌日出発する組もあった。親類や村の先輩の店に入る人は、もう待ちきれない働き手として、新しいジャンバーの一枚も買ってもらい、これを昨日までの学生服に着替えて小千谷駅上りの列車に乗ったのだった。
 筆者も三月二十五日、朝九時小千谷発の集団就職列車に乗った一人だった。東山中の級友十数名が一緒だった。母が朝早く起きて車中で食べるシソおにぎりの準備をしてくれた。シソ、クルミ、ゴマが入って長持ちすることと、紅白の縁起の意味があったようである。寺沢のバス停には村に残る級友、昨日まで毎日遊んだ村の後輩達、恩師達が門出を見送ってくれた。バスが吉野屋旅館の前に停まると、狭い駅前広場はごったがえしている。市内の各中学、小国、川西あたりの生徒も含め、大変な人数。やがて「蛍の光」のブラスバンド。定刻に列車はすべり込む。長岡、見附、加茂、新潟方面の就職生を満載した列車は汽笛を高く稗生山に轟かせて出発。
 プラットホームを走る友。「ガンバレヨー」「シッカリね」「便りよこせよ」「身体に気をつけてな」などの声が嵐のように行き交う。川口、小出、六日町、湯沢と停車するたびに同じような光景が繰り返される。
 やがて列車は清水トンネルに入り、故郷越後とはしばしのお別れ。利根川沿いに平野が広がり、風景は関東のものに変ってゆく。川口の鉄橋を渡り、赤羽、上野駅へと七時間乗った列車はホームにすべり込む。
 兄姉、いとこなどが上野に出迎えに出てくれている。東京の電車の多さにまず驚く。
 近くの小学校の冷たい校庭で、都内職安毎に振り分けられる。東山の級友達ともここでお別れである。「さようなら」「がんばろう」を言ういとまもない。こうして店員、職人、工員などの十五歳の社会人人生がスタートしたのだった。衣料品と大型食堂を経営する池袋キンカ堂の寮には、全国から集まった三十名もの同期生がいた。コックの見習いをしながら、大東京で一旗あげるべく、ボクシングジム、歌謡教室に通うもの、より給料の良い他店に移動する者、ホームシックを克服出来なかったり挫折して、寂しく帰郷するものもいた。
 郷里の友人、身内、恩師の手紙が一番の心の支えであり、待ち遠しかった。新潟に向かう夜行列車の汽笛の音を聞きながら、ネオンの灯で手紙に目通しすることもあった。その後も県下一円、小千谷からも毎年後輩が入社して来て故郷の話に花が咲いた。高校進学率が高まり、地場の企業に雇用力が高まるまで、集団就職は、昭和四十三、四年まで継続されたのであろうか。働きながら定時制高校に通い、さらに大学に通い、自らの人生を切り開いていった仲間も沢山いた。
 勤勉で向上心の高かった、昭和三十年代の日本人の姿だった。経済は著しく伸長し、東京オリンピック、大阪万博の開催、新幹線、高速道路の延長と、日本は世界の一流国の仲間入りを達成してゆく。その巨大な底力を支え続けたのが、都市に流入した真面目で粘り強い若い労働力だった。一緒に小千谷駅から出発した級友、職場の同僚達も丸四十年の歳月を数えた。今春二つの大きな同期会が開かれた。
 大半が、自分の店を持ち、一国一城の主として、各地で活躍されている。うれしい限りである。「別れの一本杉」から「北国の春」に流行歌が変った戦後の歴史でもあった。

五、おひな様見
 小千谷あたりの、ひなの節句は旧暦四月だ。四月二日、三日、四日を仕事休みとする。小正月以来のハレの日である。山に残雪が多くて、とても野良にはまだ出れない。春耕に突入する直前、身体を休め、心を癒す大切な年中行事の一つである。
 小千谷の町から「食紅」を買ってきて、紅い餅を作る。菱形に切って白い餅と交互に積み重ね、ひな段に飾る。紅白のあられも、この食紅餅で作った。座敷に、文机を並べたり、床の間を利用して、ひな人形を飾る。三人官女や、五人ばやしがすべて揃った家など、農村では極めてまれであった。あらゆる人形一切が飾られた。鐘軌大尽から洋人形、土人形、郷土玩具、こけしまでの総並びの飾り付けもあった。これらを飾って、年一回だけの紅餅を飾り、ぼんぼりなどないので、灯明を点す。花もないこの時期、残雪の山から採ってきたカタコ(かたくり)や紫一輪草などを、深い湯飲み茶碗にたてて飾った。
 村に一軒だけの豆腐屋は大忙しだ。朝暗いうちから、家中で豆腐造りだ。水をポンプで汲み上げたり、豆腐の押しをしたり、切ったりするのだ。
 昭和三十年頃、大豆五合に加工賃十五円で大きい豆腐二丁だった。鯉飼育の盛んだった東山あたりでは、一本鯉を運ぶ、おかもち桶か、バケツに丁度二丁の豆腐が入った。
 豆腐入りの醤油けんちん、ゴボウ、人参、里芋、手造りこんにゃく、昆布、竹輪などの入った豆腐煮物と餅が、正月に次ぐ節句のゴッツオだつた。二日の夕方から、他家へ嫁いだ姉がムコをつれて帰って来る。甥も姪も一緒だ。ひな飾りもあって、家の中はバッと明るくなる。夕食にはそばゴッツオも出された。囲炉裏を囲んで大人達は粉茶を飲み、話に花が咲いた。
 三日の朝から子供達は村中のA人形様見Bだ。この日は晴れて村の何処の家を訪ねても良いことになっていた。祭りの日の楽しさを子供達は待ちきれない。まだ朝霧のたちこめる早朝、仲間と連れだって「人形様見」が始まる。「ほこんしょ 人形様みしてくんねか」「なじょもあがってくれや」と迎えられる。朝食の遅い家では、まだ餅を賞味中だったりした。並べられた人形は、そこの家によって全く種々雑多だった。デパートの人形売場と違って、画一ではない。だから何軒見てもあきない。
 絵紙(錦絵)を天井から何枚も飾っておく家もあった。絵紙は伊勢参りや江戸行きの貴重なみやげが多かった。一軒見ては又一軒と、あかず人形見は続く。親類の家は別として、こういう機会でないと、他所の家の座敷などは入れてもらえない。ていねいな家では、焼いたカタ餅や豆煎りを小さな手に入れてくれたりした。こういう時は天にいなだいて(目上に手を持ち上げて)から食べるものだと親達はしつけていた。おひな様見は子供達だけではなかった。
 何の楽しみもなかった時代、青年、大人達も小千谷の町まで、二、三時間も歩いて人形を見に行った。西脇家、吉国家などは、豪勢なひな飾りを、節句には一般公開したという。(明治三十六年生まれの古老談)このおひな様見は、すっかりなくなった。
 我が家にも九十九代続いた本家、広井十郎左衛門から分けてもらったのであろう、古典的なよい人形がいくつかあった。毎年の雪処理に耐えられず、生家を壊した時に燃やしてしまった。塩谷の旧家友野与治衛門家に昔のよい人形があると聞いた。この家から出た、母の従妹が教えてくれた。訪ねると、たしかに、土蔵に箱入りであったが、ネズミがかじってしまっていた。
 気持ちが悪いので、先年一切を処分したという。江戸の豪商だったと口伝されるこの家だけに惜しいことをした。仮に残しておいたにしても、もうどこの家も飾らない。残雪の村を一軒一軒おひな様を見て歩いた春の日は遠くなった。

六、お寺行事
 地元のお寺の行事は、地域民の年間サイクルにきっちりとはめこまれていた。年中行事の重要部分は、寺行事を中心に組まれていたと言っても良い。宗派や、お寺の大小、数などにより多少、差異はあるかも知れぬが、この感は強い。東山地区の小栗山、中山、朝日、更に蘭木、荷頃、岩間木、首沢、浦柄、横渡から山古志郷一円に檀家の広がりを持つ、黒倉山福生寺(曹洞宗)は、現住職で二十四世を数え、全盛期には七百戸を超える古刹であった。
 一年は元旦(地元中山、小栗山)と、二日(他村)の寺年始から始まる。これは今も続いている。白米と年始金を包んでゆく。
 三月十五日はだんごまき(ねはん会)だ。早春の気配が漂い出した村々に、米集めから準備に入る。大きな米袋を担いだ供がつき、僧が一軒一軒託鉢をして回る。竹沢の誰々が米一俵なら、十二平の誰々は米一俵半だと競って寄進をしたらしい。当日は、老若男女、それこそもらもらと集まった。小さな商い店も一、 二軒出て小間物を売った。
 本堂いっぱいの善男善女をめがけて、豆入り団子は、天窓から大きなおかもちで何杯もまかれた。中には少し大きめ(径五センチくらい)の団子もあり、これを拾うと縁起がよいといわれた。拾った団子は、焼いて食べたり、魔除けとして布の小袋に入れ、身につけていた。害虫、山での迷子、崖からの転落除けとされた。団子まきは今もやっているが、参集する人は年寄りと母ちゃん衆の少しになつた。
 六日市十二平(今は廃村となった)の人達が、かんじきをかけて小栗山との村境である法師峠を上り、下りした。春の到来を思わせたものであった。
 五月八日はA甘茶の日B(降誕祭)。昭和二十年代には学校全員で参加する行事だった。山吹やめくら菖蒲、八重桜などでお厨子を飾り、天上天下を指さすお釈迦様に甘茶をかけ、自分達も頂いた。今は、信教の自由とかで学童たちは参加しないし、行事も消えた。
 七月二十日〜二十二日には、虫供養の大般若が行われた。ありがたいお経を沢山のぼん様があげて、経本に風をあてるために、立ち上がってパラパラとめくった。この風は無病息災の仏の加護があるといわれた。
 ちょうど春蚕(はるご)の繭出しが終了する時期。農家は三日間の農休みをした。夜もロクに寝ないで蚕の世話をした体を休めた。蚕の棚払いとて、餅がつかれ、棒鱈煮物なども食した。暑気の時期なので、笹の葉を巻いて笹餅とした。中に飴を入れてー。
 棚払い直前に、奥山へ笹を採りにゆくのも子供達の楽しい作業の一つだった。つるいちご、野いちごなどを取りながら、仲間と山へ向かった。鬼虫(クワガタ)を取ったり、巨木にかきあがったりで、農作業より余程楽しかった。繭を売ったお金で白半袖シャツ、唐傘、下駄などを新調してもらった。露店も出、大人たちはお寺で会食をした。大般若会はあるが、蚕を飼わない今日、棚払いは消滅し、笹餅も殆ど作らない。
 八月一日Aぼんぼち一日B(盆参)。お寺で家族中で食事をする楽しみの日。米一升に幾らか包んでゆき、何人でもお寺の朝食をごちそうになれる日だった。これは、今こそ人数は減ったが、継続されている。ごちそうも昔と全く変らない。夕顔汁、きゅうりもみ、新香、なす、ささぎ、じゃが芋、麩の煮物がヒラに盛って出される。露店も出て、初桃や花火、お面、おみぼこなどが売られている。
 寺行事一年の最後は、AあずきがゆB(常道会)である。十二月七日夜は、雪のちらつくこともあり、霜でがりがりのこともあった。広いお寺の本堂で子供達は相撲、馬飛び、おっつめっこなどで身体を温めた。方丈様のお説教を聞き、新聞紙の中に、少し甘いあずき粥をみやげに頂く。帰路、葉を一切落した木々の梢は高く、寒月が師走の空に冴えていた。この行事はもうなくなったようだ。
 二ヶ月に一回のリズムで寺行事は開催されていた。なくなった行事も含め、思い出は深い。

七、おかのえ講
 かのえさる、庚申の仲間の会であることは言うまでもない。庚申にあたる夜に、談笑して夜更けまで起きていた。本来はこの日に悪病や、悪い虫が体内に入らないように夜通し起きるものであるらしい。戦後まで、どこの村にも、時には幾組もあった、おかのえ講は、信心半分、親交半分の会であったようである。
 わが家の父達も、この講を結成していた。我が家、嘉一郎の他、又甚、藤兵衛、吉右衛門、花立、下左衛門の六軒が講中だつた。
 二ヶ月に一回宿が回ってきた。青面金剛の掛軸を飾り、柏手を打って参拝をする。灯明をあげた神前には、一合半くらいの徳利が二本供えられていた。今夜の一切のお神酒がこれ二本。酒は高く普段なかなか飲めなかった。節約をし、かつ、おかのえ様の夜にとり乱さないためでもあったのだろう。飲まない人が、二、三人いた。酒好きな人は、本当においしそうに、なめるようにして口に運んでいた。飲まれる酒も本望だつたろう。
 ごちそうは準ハレの日の料理だった。五目飯、醤油のAしょっぺ飯B、そば、豆腐汁ぐらいだったのではないだろうか。生クサ物(肉、魚)はタブーだつた。
 一日の農作業をおえた後、早めに風呂に入り、秋口から春にかけては、長綿入れなどにこざっぱりと着替えて宿に参集した。
 中一だつた時、父に所用があつて生意気にも代理出席したことがあった。母はやはり絣の綿入れを着せた。せいぜい一人一合くらいの酒を大切に飲んで、あとは少しだけ普段と違うごちそうを食べて、よもやま話に花を咲かせる一夜であつた。
 話題は、今年の作柄、錦鯉の出来具合、牛のつのづきの話、共同作業でやっている農道普請、旅に行っている子供の近況などとめどもなく、ゆつたりと語り合っていた。
 しかし、とても楽しみな会であり、心身を癒す絶好の夕食会であった。親しい知人との親交を深める、村内融和の場でもあった。泊まることは全くなく、夜更けの十時か十一時には散会になった。二ヶ月に一回、輪番制で宿をするおかのえ講は、集落の中での交流、又日々の労働の中で貴重な休養機能を有していた。
 木喰観音堂の脇には、自然石の上に立つ、立派な庚申塔がたつ。六十年に一回塚の下を掘り、前回埋めたものをタイムカプセルのように取り出してみる。お神酒は一升びんの中に残ってはいたが、酢のような味に変化していた。村人は、朝夕この前を通る時に手をあわせ、家族の無事や自然災害の到来しないことを祈る。四季それぞれに畑のクロ(端)に育てた花や、野の花が供えられていたが、その回数も減ったように思われる。

八、ワラ仕事
 ワラ仕事は長い冬の大切な農家の仕事であった。払暁から朝仕事でワラを打つトントンという音が、村中に広がった。
 どこの家の土間、戸の口(玄関)にもワラ打ち石(ジョーベイシと呼ぶ所もある)が埋め込まれていた。凸レンズのように石は、土間に盛り上がっていた。この前にむしろかカマスを敷き、一人でワラを叩く時はここに座り、左手でワラ束をくるくる回しながら、右手で横槌を振りかざし、ワラを叩いた。横槌は何代にも及んで使いこまれ、握りがテカテカ光り、凹みのあるものさえあった。
 二人打ちの時は、臼をひっくり返し、女や子供が回し手となり、男二人がトントンと打ってワラを柔らかくした。ワラは柔らかい葉(シベ)をすぐり取り、、これを打つ。更に細いワラ仕事や角つき牛の鼻縄(はなぎ)用は、ワラ芯(ヌイゴ)だけを抜き出して、これをトントンと打った。
 朝食前に一時間も打つと、身体がポッポッと温かくなり、実に朝食がおいしかった。ワラ仕事の初歩は雑縄(ぞうなわ)ないで、これは小学生の子供でも出来た。両手をいっぱいに広げた一ひろ三十回分、すなわち三十ひろが一わの基準となっていた。冬下校すると、スキーや山遊びに行く前に、雑縄一、二わなうことが子供達のBアテ仕事B(ノルマ)だった。タキギ類のしばりや、ハザ作りなど雑縄の用途は実に広かった。
 一方、青年達は仲間の家の一軒を、ワラ仕事宿とした。ここに打ったワラを持ち寄って共同仕事をした。先輩から作り方を教えてもらう絶好のチャンスだった。一年中使うゾーリ、ワラジ、荷縄、背なこうじ、雪沓、深沓、ツマかけ、スッペなど一切が冬期の作業として行われた。
 数人の仲間が集まり、電気もないワラ二階で談笑しながら、ワラ仕事に励んだわけだが、これが又楽しかった。よもやま話に花が咲き、流行歌や浪曲、盆歌などもここで習い覚えた。一種の若者宿を形成していたのである。仕事の合間に旦那衆から手回し蓄音機を借用してきて、何枚もないレコードをあかず楽しんだり、新曲を覚えたりした。
 三月になれば晴れる日も出現する。皆で山へスキーに出かけたり、ウサギワナをかけにも行った。母の生家もワラ仕事宿の一軒で村の青年が集まった。青年団長だった叔父を中心に春、木喰観音堂(四月十七日)の祭礼に奉納する芝居の打合せや、文集作りなども昭和初期の青年達はやっていたという。家伝の日本刀を持ち出して、はみ出しワラ(ケバ)のカットに使用したりもした。
 大きい道具の必要なムシロ、カマス、蚕のテ(まゆ造り用の用具)などは、自家でやることが多かった。早朝暗いうちに父がムシロをドシンドシン織りながら、支那事変に出征し歌わされた軍歌や、「梅と兵隊」を歌っていたこともなつかしい。雪が落ち着いて(みなぐ。降り止む)と、ワラ道具の雪さらしが雪上に展開された。

九、鬼虫の喧嘩
 クワガタ虫、甲虫などを採り集めて、これを闘わせて遊んだ。「鬼虫遊び」は市内の山村一帯に共通した子供の遊びだったのだろうか。それとも闘牛の盛んだった二十村郷の子供特有の遊びだつのだろうか。
 稲がグングン伸びる盛夏に鬼虫は出現した。山の子供達はこれをとりにゆく。一人でこっそりゆく場合と、仲間とつれだってゆく場合があつた。楢、くぬぎ、栗の木に多くいた。根本の凹みや、傷んで樹液のにじみ出ている場所が一つのポイントである。
 二番目は、早朝まだ眠っているのか、ギザギザのある肢で枝にしがみついていない時がある。そっと木によじ登り、「鬼虫ドッ」といいながら、思いきり両手を引き付けて、少年の胸を幹にぶっつける。二、三匹の鬼虫がボト、ボトと草むらに落ちる。その落下場所は下草や下葉の微かな動きでわかる。
 大急ぎで木をすべり下り、鬼虫を探す。落下した鬼虫はじっとしている。すばやくは逃げない。「いたいた!」宝石のように貴重な鬼虫が黒々と草の上に立っている。他の一、二ヶ所も急いで探し回る。鬼虫箱に入れて大切に山を下りる。
 立木から揺さぶり落す。この捕獲方法には微妙なコツがあった。荒々しく登ったり、最初の衝撃が弱くて、失敗すると、鬼虫達は枝にしがみついて、もう絶対に落下はしない。朝討ち、寝込みをおそっての捕らえ方なのである。これらは父や兄、村の悪童の先輩達が手ほどきをした。それらは又、下の子供達に伝えられて行った。
 夜、電灯につられて、たまに翔んで来る幸運もあったが、極めてマレであった。
 鬼虫の種類は沢山いた。小さい順に「メロン」(全体の形がメロン、甘瓜のように長円形であった。小さな爪のような角があり、挟むと痛かった)、「挟み」(角は直線でギザギサしていた)、「鋸」(角が少し湾曲してギザギザがついていた)、最強で形のよいのが「アオルカ」まるで鹿か、伊達牛の角つき牛のように、みごとに湾曲し、枝角をかざす姿は鬼虫の横綱であった。
 挟み以上はクワガタの成長段階だったのかも知れない。これらはビロードのように真っ黒で、しかも美しい光沢につつまれ、少年たちの宝物だつた。一方、深山クワガタ種に「ハコベ」がいた。色は灰茶色で角をかざした頭部に函状の飾り鎧がついていた。
 甲虫の雄は「一本(いっぽん)」と呼び、おなじみの形。独特の一本角てあり、甲虫同志で闘わせないと面白くなかつた。雌には角がなく「地もぐり」と呼んだと思う。
 これらの鬼虫をコレクションとして飼育する。箱は自分達で工夫して作った。とは言っても子供の仕事である。四角い二十センチ×二五センチ位の箱を作り、フタは一ヶ所に二寸針を打ち、クルリと回せばフタが動いて脇から鬼虫の出し入れが出来る仕掛けのものだった。中におがくずを湿して入れ、砂糖水を飼に入れた。中で喧嘩しないように小間区切りをするか、小さい飼育箱を幾つか用意する必要があつた。一門同志でも喧嘩させるし、他流試合もする。時には隣村まで遠征もした。鬼虫の角に唾を少しはきかけ、二匹の角をカチッカチッとこすってやると鬼虫は本能的にファイトし出した。
 虫同志の喧嘩とはいえ、時には鎧のような胴の合間に鋭い鋸のような角が入り、真っ二つにチョン切られることもあり、角がもぎとられることもあつた。すさまじいファイトが見られ、子供達が興奮した短い夏の遊びだった。村々によって鬼虫の呼称も多少異なっていた。
 二十村郷は牛の角突きは勿論、戦後軍鶏による闘鶏も盛んだつた。娯楽が少ない山村の楽しみであり、剽悍な気風のこの土地の、子供達の遊びだったが現在は全くない。都会から帰省した少年達が、たまにクワガタ虫採りにゆく。闘わせることはない。
 他の遊びがあまりにも多く、遊具も多くあって、素朴な子供達の遊びは一つ一つ消えてゆく。

十、背負い商人
     (しょいあきんど)(行商)  背負い商人衆は在方に良く来た。本町の須倉呉服屋、村田種屋、滝原町の銀杏ん木お茶屋(山古志大久保出身)多治兵衛塩干物屋(南荷頃出身)、@生の駄菓子かかしょ、遠くは物々交換の加茂のかか、鮮魚の沼垂(ぬったり)のばさなど数えきれない。(呼称は当時の村の衆の呼び方)
 何しろ日銭の入らない農家経済の時代、支出を防ぐことが最大の生活防衛であったのに良くこの衆は東山の山村を商っていた。今はない横町の田松金物屋(鋳鉄(いもじ))などは商域をここにしぼりこんだかのように毎日訪れた。この人が使う交通手段は、戦後の乗り物発達史と、日本経済の成長そのものだった。
 徒歩、自転車、小型モーター付き自転車のバタバタ(荷をつけると急坂は昇ることが出来ず、エンジンをつけてなおかつ押し上げた)、モーターバイク、オートバイ、小型四輪のミゼットと戦後三十年間に変化した。
 何しろ金物を背負って歩いて売ったわけだから、超重労働である。貧しい家計の中から、それでも田植え、稲刈り時の重労働季や、モノ日にはごちそうだつた生クサ物(魚類)を食膳にのせた。
 最安値の粉茶が主であったが、お茶は良く飲んだ。股(もも)引きや山シャツ、山綿入れなど仕事着の布も不可欠だつた。
 銭が足りなければ米、豆、小豆などの物々交換取り引きもあった。これを又帰りに背負って帰るわけだから、町の商人も重労働だった。中学生時代、相撲が盛んで取り褌は丸帯の芯が利用された。日当三百五十円くらいの時代、二百五十円くらいしたように記憶する。須倉のつあまに注文して届けてもらった。帆布のようにバリバリした白褐色の巾広布をどんなに心待ったことか。四ツに折りたたみ、四股名を筆太に書いてもらい、連日土俵に飛びあがった。商人(あきんど)衆と住民の交流や人情も深くなる。泥棒、小火(ぼや)を発見したり、水に落ちた子供を助けてくれたりした。弁当持ちの一日仕事。「今日は何も買わんねども、小千谷のつあまお昼をつかって昼寝でもしていがんか。昼起きには井戸で冷した水瓜を割るすけ」と人情は厚かった。町に出れば荷物、長靴、傘などもつきあいのある店に気軽に預けた。二月、まだ降雪の続く中、母と町に用事で出かけた。須倉のふっかまは玉うどんを買って来てアツアツにして出してくれた。「これから山方へ向かうんだから、身体を温めて腹ごしらえをして向かわっしゃい」と言ってくれた。
 加茂、沼垂の市場から朝仕入れた鮮魚(鯖、鰊、いか)を鈍行の汽車で来て一日売るのだが、良く食あたりも出なかったと思う。馬籠といった竹籠いっぱいにつめて背負うて来た。帰りには又、顔を真っ赤にして物交の穀物を入れて終バスの停車場に急いだ。
 人間も屈強であり、力もあり内臓も丈夫だつた。O157などは聞いたこともなかった。
 老年になった加茂のお母さんにバッタリ会ったことがあった。長年の重労働と歩行で足が完全に、大きくO脚となっていた。
 背負い商人は殆ど見られなくなった。衣類の行商が少し残るくらいか。これにかわり、スピーカーを大きくならして移動販売車が各町内を定時に訪れて来る。刺身も牛肉もパインナップルも積んで。
 小千谷の大手企業の社長から、若き日に盆下駄を背負って、山地を歩き売りした苦労談を聞いたことがあった。日中は野良に出ている。昼食後の僅かの時間と、昼起き茶を飲んでいる間が、一日のうちのわずかなセールスチャンチだった。その他は迷惑になるので、鎮守様の廊下や杉の木の木陰で自分も休んだという。若き日の斎藤道三の街頭油売りのような美談である。
 日本全体がまだ平均して貧しい戦 後の時代だった。町の商人衆も在方 の農民も懸命に生きた時代だったの だ。
 夕暮れの雪道を大きな荷物を背負 って町へ帰る背負い商人の姿は、今 はもう遥かな幻となった。越後瞽女 のようにー。

(新潟県民俗学会評議員)