≪言わずもがなの記≫
文・折田龍太郎
【大雪】
昭和二十年私は城川村千谷川国民学校へ入学した。思えば五十四年も昔のことである。
この年八月終戦となり、老いも若きも新しい希望に向かって第一歩を踏み出した。とにかく不足の時代で物がない、子供にとってつらいのは食べるものが無いことで、いつも腹をへらしていた思いが強い。粟、稗、山野草、芋のツル、カボチャの種等々およそ口に入るものは何でも食べた。
やがて木枯らしが長い冬の到来を告げ雪の季節となる。この年の暮れから降り続いた雪は、年が変わった翌昭和21年の正月から二月にかけ、空が破れたのではないかと思うくらい猛烈に降り、十メートルほどの前方が霞んでよく見えない程であった。
当然積雪も多いので屋根の雪掘りも近所中毎日のような大仕事で、町のほとんどの家々はすっぽりと雪に埋まり、道は屋根より高いところにできてしまい、通行人は家を見下ろして歩く始末で、今でも忘れないが上を通る雪道から、一度は子供が、二度目は中年の婦人が落ちてきたことであった。
【冬でも裸足】
長い冬の間学校では毎日の寒さにもめげず、ほとんどの子供が裸足で通した。
なかにはゾウリやズックをはくものも居たが、ズックはごく少数であったけれど、ゾウリ組もみんな仲良く元気に運動場を駆け廻っていた。ただズックは底がゴムだから心配ないが、ゾウリは床をとび廻るとすべって転ぶことがあるので、はげしく動き廻るときはゾウリを脱ぎ裸足で遊んだ。
教室は火鉢に炭を入れたのが一つあるだけで、暖房としてほとんど効果が無いので、勉強中は寒いので椅子に掛けたまま、片足を反対の足の裏にはさんさで暖めて、それを交互にくり返し体温を活用して寒さを防いだ。
【暖飯器(だんぱんき)】
春から秋までの半年間はとも角、雪の季節になると学校から遠い所の子供逹、とくに低学年の者は雪道の通学が大変になるので、昼食の弁当を持ってくる者が多くなる、現在のような学校給食など想像もできなかった終戦直後であった。
その弁当が昼までには冷たくなってしまうので、そこで考案されたのが「暖飯器(だんぱんき)」である。いつ頃、誰によって工夫されたものか知らないが、いま思いだしても実に便利なものであった。
一メートル四方もあったろうか大きな火鉢に多めの火をおこし、火鉢に合う木枠に金網を張り、一年生から六年生までの六段分を積み重ねで上にフタをする。つまり炭火により保温加熱しながら、炊き立て御飯にしてしまうのである。いま思い出しても五十年前の電子レンジと呼んでやりたい。
私は家から歩いて学校まで三分ほどであったけれど、温かい弁当を食べたくて冬になると毎日弁当を持って行った。
暖飯器の唯一の欠点は弁当の加熱により、中に入っている味噌漬、沢庵のニオイがあたり一面にまき散らされたことであった。
だが忘れることが出来ないことは、食料難の時代であったがゆえに、級友が昼の弁当を食べている間、席を離れ運動場で遊んでいる者が大勢いたことを、今でも決して忘れることがでないでいる。 |