小千谷地域と近隣のまち・むらを結ぶ

失われゆく雪国のくらし


(この原稿は平成11年度に寄せられたものです。『小千谷文化』第162号・163号合冊にも掲載されています。)


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≪懐かしい炉ばた≫
文・浅田外史

  昔はどこの家にも、囲炉裏があった。雪の村の冬ごもりは、炉ばたが中心であった。
 生家では、台所近くの居間のような所にひとつ、茶の間にも炉が切られていた。茶の間の方の炉は主として客用で、大みそかや正月など特別のときに使うぐらいであった。
 寒い季節、台所近くの炉には、薪の火が朝から夜まで燃えていて火の絶ゆることはなかった。
 湯沸かし、煮炊きのいっさい、この囲炉裏を使った。味噌汁や野菜・魚の煮付をはじめ、豆いり、天ぷらあげの際にも炉が用いられた。また、餅や魚も焼いた。こうして炉で火が燃え、鍋物の煮える音が聞こえると、気持ちが和んだものである。
 子どものころ炉ばたで、栗をよく食べた。生家では、ひとつの山に百本もの栗の木が植えられていたので、その栗の最盛期には、子どもの私も何回も栗拾いや栗運びにかり出されたことがあった。その後鍋で茹でられたたくさんの栗を炉ばたで、火にあたりながら弟と食べた経験は、今でも忘れることのできない思い出のひとつとなっている。
 囲炉裏の火は、こうした煮炊きのほか暖房用としても役立ったし、明かりの一役もになっていた。暖房としてはいつのころからか炬燵が普及した。その炬燵の熱源としては、炊落し(たきおとし)・かじこ・木炭・けしごなどが用いられた。
 茅葺き屋根の多かった村の家々では、炉の煙が屋根裏まで広がったが、それによって家全体が暖かくもなった。

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 村のそれぞれの家が雪に埋まり、野外での仕事ができなくなるとどこの家でも、家の中で仕事をした。男衆のわら仕事、女衆の針仕事は、雪解けのころまで続けられた。男衆のわら仕事は、まずわらすぐり作業、つぎはわらたたき作業が行われた。そのわらたたきの際、土間の隅で横槌などでたたくのを一人たたきといった。また扁平な石の上にすぐりわらをのせ、一人がわら束をおさえ、もう一人が掛屋でわら束をたたくやり方を二人たたきといっていた。子どものとき、この二人たたきのわら束おさえを、二回ほど手伝ったことがある。村では朝飯前の仕事として、このわらたたきをしていた家が多かった。
 昔の農家のくらしでは、毎日使用する物の半分以上がわら製品であったから、その種類も随分多かった。履物としては、草履、草鞋(わらじ)、わらぐつ、深ぐつ、つまかけなどがあった。そのほか、米俵、筵(むしろ)、叺(かます)、こも、細なわ、太なわ、荷なわ、鍋敷、釜敷、つぐら、みのなども、昔の人の手製の物であった。
 このように、米を食べ、稲の葉や茎で日用品の大半を作っていたのであるから、昔の人と稲とがどんなに深い結びつきであったかがわかる。夕食後の夜なべ仕事として男衆は、炉ばたで縄ないなどをした。女衆の夜なべは、着物の繕いや袖なしつくり、洗い張りした布で着物を縫ったりした。
 普段炉ばたで家族は、食事をしたり話し合ったりしてしたので、囲炉裏のある所が生活の中心の場であった。炉の天井からは、カギさまがさがっていて大切に扱われた。

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 子どものころ祖父から昔話を聞かれたのも、雪の夜の炉ばたであった。「昔があったてや」ある日じさが「ばさばさ、今日は天気もいいすけ、山の畑の草取りに行ってくら」と言って山へ行った。じさが草取りをしながら、「だれかこの畑の草取りをしてくれれば、三人の娘の子のいずれか一人嫁にくっず」と言った。山の猿がこれを聞きつけて、じさのそばにへ来た。・・・・・・
 やがて話が終わると、別の話をねだったりしたことは、とても懐かしいことであった。


≪言わずもがなの記≫
文・折田龍太郎

【大雪】
 昭和二十年私は城川村千谷川国民学校へ入学した。思えば五十四年も昔のことである。
 この年八月終戦となり、老いも若きも新しい希望に向かって第一歩を踏み出した。とにかく不足の時代で物がない、子供にとってつらいのは食べるものが無いことで、いつも腹をへらしていた思いが強い。粟、稗、山野草、芋のツル、カボチャの種等々およそ口に入るものは何でも食べた。
 やがて木枯らしが長い冬の到来を告げ雪の季節となる。この年の暮れから降り続いた雪は、年が変わった翌昭和21年の正月から二月にかけ、空が破れたのではないかと思うくらい猛烈に降り、十メートルほどの前方が霞んでよく見えない程であった。
 当然積雪も多いので屋根の雪掘りも近所中毎日のような大仕事で、町のほとんどの家々はすっぽりと雪に埋まり、道は屋根より高いところにできてしまい、通行人は家を見下ろして歩く始末で、今でも忘れないが上を通る雪道から、一度は子供が、二度目は中年の婦人が落ちてきたことであった。

【冬でも裸足】
 長い冬の間学校では毎日の寒さにもめげず、ほとんどの子供が裸足で通した。
 なかにはゾウリやズックをはくものも居たが、ズックはごく少数であったけれど、ゾウリ組もみんな仲良く元気に運動場を駆け廻っていた。ただズックは底がゴムだから心配ないが、ゾウリは床をとび廻るとすべって転ぶことがあるので、はげしく動き廻るときはゾウリを脱ぎ裸足で遊んだ。
 教室は火鉢に炭を入れたのが一つあるだけで、暖房としてほとんど効果が無いので、勉強中は寒いので椅子に掛けたまま、片足を反対の足の裏にはさんさで暖めて、それを交互にくり返し体温を活用して寒さを防いだ。

【暖飯器(だんぱんき)】
 春から秋までの半年間はとも角、雪の季節になると学校から遠い所の子供逹、とくに低学年の者は雪道の通学が大変になるので、昼食の弁当を持ってくる者が多くなる、現在のような学校給食など想像もできなかった終戦直後であった。
 その弁当が昼までには冷たくなってしまうので、そこで考案されたのが「暖飯器(だんぱんき)」である。いつ頃、誰によって工夫されたものか知らないが、いま思いだしても実に便利なものであった。
 一メートル四方もあったろうか大きな火鉢に多めの火をおこし、火鉢に合う木枠に金網を張り、一年生から六年生までの六段分を積み重ねで上にフタをする。つまり炭火により保温加熱しながら、炊き立て御飯にしてしまうのである。いま思い出しても五十年前の電子レンジと呼んでやりたい。
 私は家から歩いて学校まで三分ほどであったけれど、温かい弁当を食べたくて冬になると毎日弁当を持って行った。
 暖飯器の唯一の欠点は弁当の加熱により、中に入っている味噌漬、沢庵のニオイがあたり一面にまき散らされたことであった。
 だが忘れることが出来ないことは、食料難の時代であったがゆえに、級友が昼の弁当を食べている間、席を離れ運動場で遊んでいる者が大勢いたことを、今でも決して忘れることがでないでいる。