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-江戸時代のむら村-

まち・むらの歴史

小千谷組
与板領魚沼郡17カ村
池ヶ原村・池中新田
小千谷村
真人村
千谷村
千谷川村(東・西)
平沢新田
片貝村古料・新料
川口村
二十村

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千谷村
 代々庄屋の新保(神保)氏は、与板領17カ村の割元役を務め千谷川陣屋元締支配兼務であった。市右衛門新田、長兵衛新田は天和年間に分村(千谷村天和検地帳のうち高五拾九石五斗五升七合)。市右衛門新田は吉沢家、長兵衛新田は岡本家が庄屋を務めた。
 天保年間の村明細帳では、三村の家数百七軒、人別五百四拾七人。千谷村庄屋四郎兵衛(新保)、同組頭源治右衛門(吉沢)、百姓代長右衛門。市右衛門新田庄屋源冶右衛門、長兵衛新田庄屋清兵衛。禅宗長楽寺、鎮守山王権現、神明宮、熊野権現、十王境内、観音境内がある。
 宝暦年間(1751-64)ころまで、鎮守山王権現(日吉神社)前(現在の千谷島)に河戸が開かれ船着場として栄えたという。


東千谷川村・西千谷川村
 千谷川村は茶郷川下流域に開け、地名は信濃川支流茶郷川の別称と言われる。代々庄屋の星野氏は、草分け庄屋渡辺氏の庄屋株を買って、相川村(現川口町)から入ってきたといわれる。
 千谷川村は正徳元年(1711)に支配の関係上、地境ではなく石高で二村に分けられ東千谷川村と西千谷川村となった。(「天保郷帳」では一村として記載されている。)
 東千谷川村は正徳元年(1711)〜寛政十年(1798)まで与板藩領となったときに、与板領魚沼郡十七か村の陣屋が置かれた。場所は小千谷村神明社の裏手を通る長岡道付近で、与板につながる街道や河戸を利用しやすい場所に建設された。千谷川地内の陣屋が置かれたとされる付近には「陣屋坂」と呼ばれた所があると言う。

文政8年(1825)村役 庄屋 組頭 百姓代
東千谷川村 栄助(星野) 忠左衛門(井口) 長吉(渡辺)
西千谷川村 松右衛門(星野) 喜右衛門(戸田) 甚右衛門(丸山)


信濃川左岸に開け、茶郷川との間が段丘となっている。(屋敷地は現在の千谷川1丁目)

茶郷川から西の一部(現城内1〜2丁目あたり)
(大坪は現在の市役所付近)
「千谷川村天和絵図」(小野坂家所蔵)


平沢新田
 平沢新田は寛文10年(1670)検地により千谷川村から分村したといわれる。村名は、高梨城に居城した平沢氏が開いたことによるとの伝承があるが、地形によるものという見解もある。
 天和検地の石高は百拾拾弐石四斗八升六合。天和以後幕府領となった平沢新田は、出雲崎代官所・会津藩預所・小千谷代官所・会津藩預所などの支配変遷を辿る。
 文政8年「御手鑑」では、家数十軒、人別四拾八人(男25人、女23人)。鎮守諏訪明神、稲荷明神、観音堂がある。


「魚沼郡平沢新田検地水帳」
(小野坂家所蔵文書)

年代 庄屋 組頭 百姓代 検地案内百姓
天和3年(1683) 勘兵衛 源三良
文政8年(1825) 六郎右衛門(小島) 次郎右衛門(和田) 太郎兵衛(鈴木)


広域ふるさと文化協会発行の「『広域文化』がゑるっぱ群 第2号」の「わがまち・わがむら」に、小千谷市・川口町・山古志村・小国町の各町内(大字)ごとに歴史・文化がまとめられ掲載されています。


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