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-江戸時代のむら村-

まち・むらの歴史

小千谷組
与板領魚沼郡17カ村
池ヶ原村・池中新田
小千谷村
真人村
千谷村
千谷川村(東・西)
平沢新田
片貝村古料・新料
川口村
二十村

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池ヶ原村・池中新田
 地名の由来は、池谷干拓により往古周囲凡そ20町の池沼を北の角から埋め立てたと伝えられる。古庄屋は東集落の伊藤冶右衛門で、後に村山久家、関氏が務める。岩田氏は、高田藩士が浪人したもので入村時から村の重立ちであった。
 池中新田は池原平(いけはらたいら)の新田ともいう。池ヶ原の中央部から南に位置し、池ヶ原に囲まれる。天和3年(1683)に池ヶ原から分村。元禄(1688-1703)頃から村山氏が代々庄屋を務める。樋口家は、干拓の功労者として鎮守神明堂の守護役を務めていたといわれ、古くは組頭を樋口茂右衛門が務めていた。田中氏は、時水の田中三右衛門家(屋号かじや)の出身と伝えられる。


「文久2年池ヶ原村絵図」
年代 庄屋 組頭 百姓代
池ヶ原 文政8年(1825) 甚左衛門(関) 仲右衛門 弥右衛門
池中新田 文政8年(1825) 藤右衛門(村山) 九右衛門(中村) 忠右衛門(田中)

<関連項目>戊辰戦争「最大の激戦」/芋坂・雪峠の戦い

小千谷村
 小千谷村は、古くは船岡山南側麓の中世の村「田島名」から湯殿川河口付近の蓮華谷(現元町)に開けていた。高田道・信州街道(善光寺への道)・長岡道などの街道が通り、千曲川(信濃川)の川岸には船改め番所がおかれるなど水陸交通の要衝であった。元禄年間以後は縮布生産増加とともに縮布三市場の一つとして賑い、有力者の多くが商いを営んでいた。
 江戸時代初期の慶長年間(1595〜1615)頃に新しい町づくりが考えられ、当時の有力者であった東、中町、佐藤、吉沢、西巻、野沢、川瀬氏などが荒れ地であった現在の本町の高台を開き、寛永15年(1638)に町並みが完成したと言われる。
 町並みの中心である町通りは上町・中町・下町に分けられ、有力者の多くがここに屋敷を構え、裏町・横町・鉄砲丁には名子が置かれた。以前の中心地であった湯殿川流域は田畑となっていったが、延宝年間頃から小千谷陣屋や小千谷蝋座が置かれていた。
 小千谷村は天和年間以後、宿場町としては衰退していったが、縮布生産の発展とともに商業地として発展し、人口増加するようになった。そして屋敷地は、町通りを中心に寺町・横町(現平成)・船岡山(現稲荷町)・上ノ山・南原(現元町・日吉・栄町)などに拡大していった。


「天和2年(1682)の小千谷村(町)屋敷割図」(作成:小野坂頼甚)
(「天和野帳写」(広川家文書)をもとに野口家文書等を参考に作成。)

 天和検地の小千谷村の屋敷地は、現在の本町通りを中心に平成1(横町)、元町、旧住吉町、旧鉄砲町の一部にあった。町通りは、西から上町・中町・下町とし、中央の道路で南通りと北通りと分けて呼ばれた。このころは現在の本町1〜2のうち旧住吉町、旧鉄砲町の一部に屋敷があったのみで、旧孫八町、旧旅屋町には独立(名請)した屋敷がなく、旧本町を除く多くの旧町域は通りに面した屋敷に含まれていた。
南側通り  52軒の家(名請地)がならんでいた。
 上町に柳小路、中町に四間小路、下町に日光小路があった。この3つの小路は現在もほぼ変わらない位置に道路がある。柳小路は旧住吉町から稲荷町への道、四間小路はスクランブルからの国道17号線、日光小路は旧旅屋町や小千谷総合病院の裏手へつながる道。
 下町の東端には広場があり、ここから小千谷河戸、湯殿川へつながる道があった。(現在の本町パーキングあたり。)
 上町の西端から寺小路となり、照専寺、慈眼寺、極楽寺と続き土川村境となる。
 南側通りには、上町の裏手に裏町の名子屋敷などがあり、中町の裏手には成就院が所在した。
北側通り  55軒の家(名請地)がならんでいた。
 北側通りには大きな小路はなかったが、下町に信濃川河戸と千谷川村へつながる千谷川道があった。この道沿いの鉄砲丁に名子屋敷があった。
 南方向へ高田道となり、横町の屋敷が並び裏手には専正寺があった。
川端通り  町の中央を通る道の東側の突き当たりには高札場があった。その先は崖となっており、ここを境にして信濃川の川端通りとなっていた。
 川端通りには大肝煎平沢藤左衛門の屋敷など幾つかの屋敷と船改め番所、御師屋敷のほかに天和検地以前に移動した陣屋、郷蔵、蝋座の跡地もあった。


真人村
 真人村は10数か村(集落)に及ぶ広大な地域からなり、天和年間(1681-1684)には町村といわれるほど繁栄していた。芋坂は天和検地帳に芋坂新田と載り、川井村冬井の中世名主の系譜を引く大渕市右衛門家から出た、弥次右衛門親子によって開田された。
 真人村庄屋を務めた者は次の通り。明暦頃は本村の屋号を表という田中新右衛門。天和年間頃は大窪弥右衛門。その後笹崎長兵衛、田中新右衛門(本村)。宝暦年間頃から石名坂の田中家(屋号・大石)が代々務める。

<関連項目>

助かった数百人の命

真人地区の苗字・屋号
会津藩の御典医になった農民


広域ふるさと文化協会発行の「『広域文化』がゑるっぱ群 第2号」の「わがまち・わがむら」に、小千谷市・川口町・山古志村・小国町の各町内(大字)ごとに歴史・文化がまとめられ掲載されています。


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