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小千谷組
与板領魚沼郡17カ村
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小千谷村
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千谷村
千谷川村(東・西)
平沢新田
片貝村古料・新料
川口村
二十村

-江戸時代のむら村-

まち・むらの歴史

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片貝村古料・新料
 三島郡片貝村は、現在片貝町と呼ばれるところで、小千谷市域にもう一つ片貝村が存在していたことで「上と下」に区別されている。小千谷市域で唯一、慶長検地帳(堀検地)の原本が確認されている村でもある。正保四年(1647)、名請人の単位で長岡藩領と高田藩領に分割され、それ以来、二村に分けた領主支配が続いた。文化6年(1809)には、正保四年の長岡藩領分を片貝村古料、同年の高田藩領分を片貝村新料として成立した。

「三島郡片貝村検地水帳」(旧高田領)

 天和二年、津軽越中守の検地奉行大道寺隼人によって検地されたのは高田藩領から幕府領となった土地である。石高は百九拾壱石九斗六升弐合で、片貝村の石高のうち約3分の1であった。

『やせかまど』
新野本「小千谷市立図書館所蔵」

 片貝村新料の庄屋太刀川喜右衛門が著述した『やせかまど』は、文化・文政を中心とした農村の生活や庄屋の心得、事件、災害などが純粋な見解で記述されていることで、全国的にも見られない貴重な資料とされている。


川口村
 江戸時代初期〜中期の川口村は、現在の西川口を含む広大な地域であった。古くから交通の要所であり、慶長年間の堀直竒支配のときにはすでに宿駅の機能を担っていた。慶安2年(1649)以後、三国街道沿いの本村は宿場町として形成され人馬往来で賑わった。
 川口組の大肝煎を務め、小千谷組では代々庄屋であった中林家は、宿場の本陣として大名や役人などの宿泊先に当てられていた。
 魚野川対岸の地域は開発途中で、原野が広がっていた。元禄7年(1694)に検地を受けた「中林新田」は、大庄屋中林太左衛門によって開墾されたところで元禄11年(1698)に「原新田」村として分村。
 川口村は寛保3年(1743)に支配替えが行われ、西川口が天保5年(1834)まで糸魚川藩領に属す。同領はその後、幕府領に変わり西川口村として分村。
 天保11年(1840)には、信濃川左岸の西倉前島と桑巻島が法坂村(小国)山崎氏の新田開発により山崎新田として分村。

川口組本陣見取図(文政13年(1830))

(中林家文書)

年代 庄屋 与頭 百姓代
文政8年(1825) 藤九郎(中林) 市右衛門 米次郎

二十村
 二十村は、小千谷市、長岡市、川口町、山古志村、広神村に分布する山間地域の総称として用いられ、二十村郷、山古志郷などとも呼ばれている。この地域は牛の角突き習俗や錦鯉発祥の地として広く知られている。
 近世初期の二十村は虫亀六ヶ村を除いた地域で、元和4年(1618)の「牧野氏知行目録」では東山村、正保2年(1645)国絵図では山二十村、正保4年(1647)検地では二十村として見え、下記表の20の村からなる。


「正保4年木沢村・塩谷村検地帳」
(木沢村有文書コピー))
竹沢入 油夫 桂谷 菖蒲 間内平
大内 梶金 小篭新田 大久保 小松倉
小栗山 中山 寺沢 朝日 濁沢
荷頃 蘭木 岩間木 首沢
木沢・塩谷
 『山古志村史』では、山二十村を「正保2年(1645)の国絵図」から抽出し、木沢・塩谷・蘭木・荷頃・梶金・小松倉・菖蒲・岩間木・朝日・寺沢・中山・首沢・小栗山・油夫・大内・竹沢入・間内平・桂谷・大久保・濁沢の20か村を指すものであったとしている。
 二十村は江戸時代初期に年貢徴収のため一組にまとめられたが、親村は木沢村か小栗山村のどちらか不明。木沢村は、慶長検地のとき二十村の親村として検地帳が肝煎縫之助に下賜されたと主張し、小栗山村は寛文12年(1672)以前から二十村の年貢割賦状が肝煎十郎左衛門(広井氏)に渡されていたことを主張した。寛文12年に木沢村と小栗山村は親村をめぐり争っているが、どちらが親村となったかは不明である。

<二十村への道>
 二十村へは、浦柄から朝日川に沿って国道291号線が通っている。古くは三国街道が榎峠の要害会水城本丸の東方から浦柄地内に入り、三叉路から20メートルほど集落よりのところで、朝日川上流に向かう二十村道と分岐していた。
 浦柄西端の現在の三叉路には、「右二十村道 左長岡往来」と刻まれた道標がある。これは旧三国街の追分にあったが、のち朝日川に落ちたものを後年某氏が拾い上げ、現在の位置に置いたという。

国道291号線の三叉路に置かれている追分の道標。

<牛の角突き>
 千年の歴史があるといわれ、神事として行われてきた習俗。
 滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』に「当国古志郡二十村には、毎年三、四月の頃、丑の日あるいは寅の日を選んで、角突きという闘牛の神事がある」などと紹介されている。
 戦後は一時期禁止されたこともあったが、昭和54年には国の重要無形民族文化財に指定され、現在も神事として受け継がれている。

「ねまるいし」
「ねまる」とは「ねまり」のなまりで、座る(正座)することに意味。竹沢村庄屋星野家の庭に置かれていたといわれ、役人が出張してきて裁判するときに罪人(被疑者)が座らされたという伝承がある。


広域ふるさと文化協会発行の「『広域文化』がゑるっぱ群 第2号」の「わがまち・わがむら」に、小千谷市・川口町・山古志村・小国町の各町内(大字)ごとに歴史・文化がまとめられ掲載されています。


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